夢が日常になっていくということ
風が心地よく感じられる季節になった。
暑い時期に胃腸炎になってから、食べるのが少し億劫になってしまって、甘酒と豆乳を混ぜたものを口にして、仕事に行っていた。
暑さが和らぐと同時に、身体にべったりとはりついていた重苦しさも少しずつ薄れていくような気がする。
10月に入り、美術館の学芸員として、ようやく本採用となった。
半年間特に大きな問題を起こさなければ、条件付採用から本採用になる。大きな問題など起こすことはないだろうと思っていても、10月1日を迎えるまでは不安もあった。
私の身体を覆っていたのは、夏の暑さだけではなかったのかもしれない。
美術館の学芸員になって、半年。
夏のイベントとして美術館のなかを探検する地図をつくったり、子どもたち向けの塗り絵をつくったり、子どもたちと一緒に絵を描いたり、SNSを更新して美術館の魅力を広報したり、展覧会の計画を立てたり、本や論文を読んで研究したりした。
こう書くと、なんだかキラキラしているようにも思えるし、実際これほど自分に向いている仕事はないだろうと思う。
その一方で、毎日たくさんの小さな失敗をして、それを指摘されるたび恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになって、お腹がきりきりする。家に帰ってきてからも、仕事の失敗を思い出して、変な声をあげてしまうこともしょっちゅうだ。
それでも、たまに上司から褒められれば、帰りの車の中でひとりにやにやしているし、アンケートの自由記述欄に書かれた「たのしかった!」という子どもの文字に救われるような気持ちになることもある。
仕事では、文章を書く機会も多い。回覧から戻ってきた、たくさんの赤が入った文章は、元の文章よりも格段に読みやすく美しく仕上がっている。
ありがたいな、勉強になるなと思いながらも、赤の入らない、自分だけの文章を書きたいと思うこともある。
noteの更新を再開したのは、そんなちっぽけな理由もあった。
夏の間、また更新が少し途絶えてしまったけれど、いつでも自分の言葉で語れる場所があるという安心感が、私の心を強くしてくれた。
自分の言葉に自信が持てないとき、noteに戻ってきて、noteでもらった言葉をお守りみたいに抱えていた。
noteの世界でもらった言葉は、noteの外にいるときも、私を支えてくれている。
ときどき、職場で受けた言葉に棘を感じてしまって、自分の至らなさにげんなりして、ああ、なんだか息苦しいと思ってしまう。
以前の私は、そんなとき、つい生きづらさを語ろうとしていた。自分がこの世界の被害者であるかのように。
でも、いまは息苦しさを感じたら、一旦息継ぎすることにしている。
そう教えてくれた人がいるからだ。
席を立って、ドリップコーヒーにポットからお湯を注ぐ。お湯を注ぎながら、ふぅーーーーーーと長く長く息を吐ききると、新鮮な空気とコーヒーの香りが自然に身体へと入っていく。
息継ぎすると、少しだけ景色が変わる。
棘のある言葉を投げてきた人だって、悪者ではないのだ、と思い起こす。
いつも憎まれ口を叩くその人は、誰かが困っているとき、真っ先に手を差し伸べてくれる人でもある。「あーもーだから言わんこっちゃない」とぷりぷり怒りながらも、一緒に手を動かしてくれる。
いい人、とか、悪い人、とか、別に私が判断しなくてもいいのだ。
その人は、ただその人でしかないのだから。
「もう少し言い方をどうにかできないものかね」とその人が別の人に対して怒っているとき、私はマスクの下でちょっと笑いそうになってしまった。
「言い方で損をしているような気がしますね」と、その人に聞こえないくらいの声で、私は呟いた。
誰かの言葉が、noteの外の私のところでも生きているように、私の言葉が、noteの外にいる誰かのところで生きていることもある。
2年くらい前の私の言葉が、彼女の中で生きていた。
彼女が私の気持ちを受け止めようと行動してくれたことに、胸が熱くなった。
自分の未熟さや心の小ささが嫌になることもある。
でも、私に力をくれた人がたくさんいて、私もほんのちっぽけだけど誰かの力にはなれているかもしれない。そう思えると、少しだけ目の前が明るくなる。
きりきりするお腹を抱えて、夜中に昼間の失敗を思い出して奇声をあげている私は、ちっとも格好よくなく、むしろとても格好悪い。
だけど、今の私は、そんな格好悪い自分も、嫌いじゃない。
見苦しい姿を晒しているとしても、私はこの日常を楽しめているから。
上司との面談の際、ひととおり質問を終えた上司は、少し間をおいて「仕事、楽しいですか?」と私に尋ねた。
「楽しいです」と私は即答していた。
上司は安心したようにふっと笑って、私は自分が即答したことに少し驚いていた。あー、私楽しんでいるのね?と、自分自身に確認がとれたような。
順風満帆とは言い難い船出だった。
荒波にもまれながら、船にしがみつくので精一杯だった半年。
その半年の間に、どこか行き着く先へと思いを馳せるだけじゃなくて、この船路そのものを楽しんだらいいのだと気づいた。先ばかりを見ていたら、目の前の景色を見逃してしまう。
船につかまることに必死になっていると思っていたけれど、なんとか景色を楽しめてもいるみたいだ。
これからどんな旅路を辿るのかわからないけれど、波にもまれても、息継ぎをすることを忘れずに、行く先々で誰かに灯台のように照らしてもらったりしながら、目に映る景色を楽しんでいきたいなと思う。