大学生が『幸せ』を考えてみた

こんにちは
中堅大学に通う理系4年生ののんちゃんです!

先日、後輩との面談でこんな会話がありました。
後輩「幸せになれる会社に就職したいです。」
私「・・・何が貴方の幸せですか?」
後輩「んー、お金とか?」
・・・
みたいな感じで1時間ぐらい話していました。
この面談終わりにふと、自分の『幸せ』ってなんだろうかと思い、私なりに考えてまとめてみました。


導入

私、のんちゃんはハッピーエンドが好きです。
小説やマンガ、ドラマなど感情移入したキャラクターがバッドエンドで終わると少しもやもやします。

そして、いくつかの作品でこう思うことがあります。

「どうして、その行動をした!」
「なぜ、不幸になりにいくの!?」


例えば、
自分を犠牲にして、誰かを助けるみたいなシーン。

自己犠牲…
素晴らしい行動でさぞ感動的でしょう
けれど、自己を犠牲にすることでしか解決しなかった問題だったのか?

あらゆる可能性を考えたのか…
できうる限りの行動を起こしたのか…
一緒に幸せになる方法はなかったのか…
そう思ってしまいます。


私の好きな作品で、西尾維新先生の物語シリーズというものがあります。
その中でこんなセリフがあります。

言い訳のようにも聞こえるけどね

幸せにならないから勘弁してください
幸せにならなろうとなんかしないから
どうか許してください
どうか見逃してくださいと言っているようにも

僕たちはこんなに不幸なんだから責めるなよ、
可哀想だろって主張しているようにも

ひょっとしてあなた
不幸や不遇に甘んじていることを
頑張ってると思っちゃってるんじゃないの
そういうのを世間では何もしていないっていうんだよ

不幸なくらいで許されると思うな
ハッピーエンドを目指すべきだ

不幸でい続けることは怠慢だし、
幸せになろうとしないことは卑怯だよ

そんなんじゃ自殺した先駆者も報われない

少し厳しい言い方ですが、私はこのセリフにとても共感していて
あらゆる手を尽くしてでも
幸せになるべきだと
ハッピーエンドを目指すべきだと
考えており、
不幸に甘んじている人を少し冷たい目で見てしまう傾向があります。

話を戻すと、
自己犠牲なんてただの怠慢で、
誰かの『幸せ』のために自己を『不幸』にする行動は間違っている!
そう思うわけです…


ここまで、
散々、幸せだの不幸だのハッピーエンドだのといった言葉を使ってきましたが、

じゃあ、『幸せ』とはいったいなんだろうか…
ハッピーエンドとはどこを目指しているのか…

もしかして自己を犠牲にする、報われないことこそ『幸せ』だったのか…
『幸せ』について今一度考える必要があります。


幸せとは

改めて、『幸せ』とはなんでしょうか?

お金があること?
人間関係に恵まれていること?
自分の好きなことができていること?

様々な価値観があると思います。

もう少し、定義的、一般論的に考えてみると、
日本には憲法に幸福追求権と呼ばれるものがありますよね。

生命,自由及および幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

こういうやつです。
見ての通り、この文中には幸福とは何か書かれていません。
つまり憲法上の幸福、『幸せ』とは個人によるものなのか…
いったい私たちは何を追求できるのでしょう…


続いて、
辞書で『幸せ』の意味を調べてみると

1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。
2 その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。
3 めぐり合わせ。運命。
4 運がよくなること。うまい具合にいくこと。
5 物事のやり方。また、事の次第。

こういう感じですね。
なんというか…パッとしないというか…
全体的に運要素が強いなと思いました。
『幸せ』とは運なのか…


上2つは、少し広義的な印象でしたが、
過去の頭のいい偉い人たちは『幸せ』についてどう考えていたのでしょうか。

私は情報系の講義だけではなく、
大学で哲学や倫理学、人権論、心理学を履修しており、
その講義で『幸せ』について度々話題に挙がりました。

やれ、エンゲージメントだの人間関係だの
小難しい話が多かった印象でしたね…

ディスカッションなどもありましたが、
金や人間関係、自由と言った感じで
本当に人それぞれで『幸せ』が異なっていました。


さて、では実際に講義で出てきた
特に印象の強かった3人
ニーチェやソクラテス、ミルは『幸せ』をどう捉えていたのでしょうか。

蓄えたヒゲが有名な“ニヒリスト”のニーチェに言わせれば、幸せとは環境に左右されることなく、個人がコントロールできるもの。ニーチェは、力(または力の欠如)が個人の人生経験に及ぼす影響についてたびたび執筆した。「人は抵抗することで主体性を取り戻すことができる。その自我の意識が幸福につながる」と説いた。


「幸せとは力があると感じることである。抵抗を乗り越え、成長を感じることだ。」

ニーチェ

偉大なる哲学者の1人であるソクラテスにとって、幸福とは報酬や賞賛から得るものではなく、個人が自分自身に与える内部的な成功から得られるものだった。


「いいかい? 幸せの秘訣はさらに多くを求めるのではなく、より少なきを楽しめる能力を磨くことにあるのだよ。」

ソクラテス

ジョン・スチュアート・ミルは歴史上初めてとも言っていい自由主義思想の熱心な信奉者だった。幸福を論じる上で彼は、古代ギリシャ人の叡智を援用した。身の回りに物を溢れさせるよりも、目的を持って物を使うことを信条とした。ジェレミー・ベンサムの唱えた功利主義の擁護者でもあった。


「私は欲望を満たすよりも、抑えることで幸せを見つけることを学んだ。」

ミル

バックボーンとともにサイトから引っ張ってきました。


ニーチェは自己成長、自身の欲望を満たす的な考えで、
ソクラテスは欲望を抑え、物の見方を変える的な考えで、
ミルも欲望を抑え、目的と選択を明確にする的な考え
だと感じました。

どうでしょうか…
私はニーチェの考えに一番共感できました。
対して、ソクラテスやミルの考えも必要だとは思いますが、ニーチェほど共感はできませんでした。


ここで、もう一つ有名な
『三大幸福論』ではどうでしょうか

幸せとはいつもまぼろしのようなものと言われる。
人からもらうような幸せについては、たしかにそうだ。
そんな幸せはそもそも存在しないのだから。
しかし、自分でつくる幸せはまぼろしではない。
それは、学ぶ過程の中で得られるものであり、そして人は、一生学びつづけるものだ。

アラン

幸福の秘訣は次のごときものである。
──すなわち、諸君の関心・興味をできるかぎり広くすること、そして、諸君の興昧をそそる人や物に対する諸君の反応をできうる限り、敵対的でなく友誼的たらしめること。

ラッセル

遊び半分の仕事でないかぎり、すべてほんとうの仕事には、まじめに打ちこめばいやでもすぐおもしろくなってくるという性質があるものだ。
人を幸福にするのは仕事の種類ではなくて、創造と成功の喜びである。
およそ存在する不幸中での最大の不幸は、仕事のない生活、生涯の終わりにおいて仕事の成果を持たない生活である。
(中略)
現代の一才女(*六四)の遺稿に見えることばをもって、結論と目するものである、いわく、「幸福は神とともにあること、それに至る力は、魂の響きなる勇気」と。
この地上にはこれ以外の幸福は存しない。
*六四(全体としては奇妙な、しかしこの種のひらめきに満ちた戯曲『古代スコットランド』の作者であるギゼラ・グリム(旧性フォン・アルニム)。(原著者注)

ヒルティ

これもサイトから引っ張ってきました。

アランはニーチェと同じく、自己成長、学び続ける的な考えで、
ラッセルは見識を広げ、人間関係が良好的な考えで、
ヒルティは仕事(想像と成功)と、信仰心的な考え
だと感じました。

どうでしょうか…
私はアランとラッセルの考えは共感できました。
しかし、ヒルティの考えは全く共感できませんでした。

・・・

ということで、
『幸せ』とはなんなのか理解できましたでしょうか…
私は全く理解できませんでした!!

似ている文言はあっても方法が違いますからね。
ぶっちゃけると少し胡散臭い…
成功した人間の自己啓発書感が否めなかったです。



持論

色々な考えを得て私は、
結局は個々人によるのでは?
と考えるようになりました。

周りからあの子は
「不幸だね」
「かわいそうだね」
といくら言われても当人が『幸せ』だと感じていればそれは『幸せ』

周りから
「あの子は恵まれている」
「幸せそうだね」
といくら言われても当人が『不幸』だと感じていれば『不幸』だと

ここに他人が介入できる余地はないのではないか
幸せや不幸せの押し売りは洒落にならない行為だと

つまり、
私が考える『幸せ』とは、
人それぞれに『幸せ』のラインがあり、そのラインを超えるとそれは『幸せ』と言える
というものであり、
ラインというのは曖昧ですが、

感情や精神、経験といったもろもろを総合したもので、
外的要因ではなく内的要因が強いラインです。

やっぱり明確に『幸せ』を定義できませんね…


結局『幸せ』というものを理解できていない感がすごいです。
そこで、
もう少し根拠のある『幸せ』を考えてみようと思いました。


科学的「幸せ」

こんな論文があります

http://sonjalyubomirsky.com/wp-content/themes/sonjalyubomirsky/papers/LSS2005.pdf

幸福度に関する論文です。
この論文、賛否が分かれるそうですが、
ひとまずこの論文が正しいと仮定すると…

『幸せ』の定義を、

頻繁にポジティブな感情を持ち、
高い生活満足度を持ち、
ネガティブな感情を持つ頻度が低い


ことが主観的幸福の3大要素と定義されています。

これはあくまで主観的な『幸せ』で
慢性的幸福
つまり、幸福度セットポイント(私が記述したラインのようなもの)は、

遺伝、生まれ持ったもの(50%)
環境:学歴、人種、年齢、収入、社会的地位など(10%)
幸せになるための自発的行為(40%)

だそうです。


まず、環境、外的要因が1割なのが驚きでした。

論文によると、
例えば、統計的に

給料の高い人は相対的に幸福であり、
中産階級の人は労働階級の人よりもやや幸福であることが示されている。
ベラルーシやスペインのように多様な文化圏においても既婚者は独身者、離婚者、寡婦よりも幸福である。
宗教的に熱心な人ほどとても幸せであると評価する傾向がある。

だそうです。
しかし、
これら全てを総合しても幸福度の分散の8%〜15%にしかならなかった。

これは、
人は一定の環境に適応する傾向があるため、
外的要因による幸福には上限がある。
と考えられています。

つまり、
金を稼ぎすぎている人の幸福度は下がる
既婚者は結婚当初の幸福度は高いが、歳をとるほど幸福度が下がる
ということです。
人は『幸せ』に慣れてしまうのですね…


そして、遺伝が5割と私の持論通り、
内的要因がかなり強いことがわかります。

一卵性双生児の双子をサンプルとして挙げており、
30歳まで測定した結果、
幸福の変化のパターンがかなり似ていることが一貫して示されているそうです。
神経生物学に根ざした、外向性、覚醒性、否定的感情などの比較的変異しやすい対人関係 、気質、効果的な性格特性を反映しているそうです…
(何を言っているかわからん…)

双子のサンプル数がどの程度か
双子は違う環境で育てられていたのか
兄弟だとどうなのか
どのような実験を行ったのか
色々と思うことはありますが、
よく聞く双子は似ているみたいなものですかね…


そして、最後に自発的行動が4割
これもかなり驚きました。
自分の行動で『幸せ』を掴める可能性が高いということですよね。

この自発的な行動というのは、
人が日常生活で行う様々な行動や思考を含む、非常に広いカテゴリーで、
その実現にある程度の努力を必要とするもの。
つまり、人はその活動を行おうとしなければならないのであって、勝手にそうなるわけではない

要は、意図的に活動を変えることで、少なくとも環境の変化と同程度、おそらくはそれよりもはるかに大きな幸福感の向上が期待できる可能性があるそうです。

そして、
目標の達成度が高いほど、一貫して幸福度が高く、
人が自己一致した目標 、その人に「合う」目標を選択し達成したときに幸福度が最も高まることを示したそうです。

さらに、
感謝、希望、許しといったポジティブな心理的「美徳」の実践、認知活動が幸福の相互作用に多くの優れた可能性を提供することが示されています。



上記に書いた『幸せ』は、
持続的な幸福については研究されていないそうです。
この後も論文は続いて、考察などが書かれているのですが、長いのでここまでとします。



最後に

ダラダラと書いてきましたが、
結局『幸せ』は主観的幸福でいいのでしょうか…

頻繁にポジティブな感情を持つ
 ・目標を持って、それを努力して達成する
高い生活満足度を持つ
 ・お金(600あれば十分)
 ・時間(運動できる時間)
ネガティブな感情を持つ頻度が低い
 ・元々ネガティブ思考なので無理
 ・強いていうなら、自分の価値観、軸をしっかりと持つ

私ならこうなりますね。

生活満足度に関しては外的要因に入るのでほどほどでよくて、
目標は日々更新し、努力を怠らない。
ネガティブこれは遺伝感が否めませんが、50%まるまるネガティブというわけではないので、まぁいい感じでしょうか…

奇しくもニーチェに近くなりましたかね?



結論!!

やっぱり『幸せ』は人それぞれ!!
自分のハッピーエンドを目指しましょう!!

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