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タバコと万華鏡

我々は、心の通った人たちの落とした欠片を拾い集めた集合体に過ぎない。

元恋人が貸したまま譲ってくれた部屋着のパーカーを今も着ている。
ウォークマンに入れられた、自分では聞かないようなロックを今も口ずさんでいる。
使っていたいい匂いのする柔軟剤。ピアス。電話ぐせ。思いの伝え方。
上手な別れ方。

人は裏切るということ。

小さなころは世の中の嫌なことに逐一傷ついていた。
人は生まれながらにして、誰かに教わるでもなく裏切り方を知っているが、裏切られることに対して我々はあまりに無防備だった。

彼はいつも裏切る側の人間だった。
そんな彼にしてみれば、信じることしか知らない子供のようなわたしが眩しかったのかもしれない。
様々なことを知っている彼をわたしが眩しく思ったのと同じように。

裏切りには裏切りしか返ってこない。
友達にも女にも不自由しない彼はいつも孤独だった。
彼のそばにいる人間は常に一定ではなかった。
その中でも、彼を彼として認識し、いつだって全面的に信用していたのは、彼にとっては家族以外にわたしだけだった。それだけは、残念ながら自信を持って言える。

裏切りを繰り返す人間のそれは、もうほとんど習性に近い。
どれだけ誰かを大切に思おうが変わらない。
本人は裏切りとも認識していないからだ。

「お前は恋愛初心者で、俺は遊んできた人間だから。言わなきゃ何が嫌なのか分かんねーよ」

彼はいつか、途方に暮れたようにそう言った。

全部こっちに責任なすりつけて来てるじゃん、と友人は苛立ちを隠さず吐き捨てた。遊んでたことは自慢ではないし、とも続けた。
嫌いになりきれなかったわたしは迎合することもできず曖昧に笑った。

今ではなんとなく寄り添える。
彼は彼なりにわたしを大事に思っていて、嫌な思いは極力させたくなくて、でもうまくできなかったんだなと。

自分の範囲内でしか物事を捉えられなかった彼はもちろん、その意図を察せずごめん、と謝っただけのわたしも、きっと幼かった。

「一億当たったら。…そうだな、田舎に引っ越すわ」

彼はぼんやりと言った。

「都会は疲れた」

「ふうん。それもありだよね、家買ってね」

「そうそう。で土地買って、自給自足しながら足りないものだけスーパーに買いに行って」

「それも理想だね。当たったら教えてくれなくてもいいから呼んでよ」

「それ、当たったって言わなくてもばれる」

彼は笑った。
ばれたか、とわたしも軽く笑った。

こうして電話していると、あの頃に戻ったような気持ちになる。お互いがお互いを好きで、いつまでも二人でいるんだと思っていたあの頃。

「…俺、やっぱりお前と結婚したかったよ」

わたしは何かを言おうとして、口を噤んだ。
すぐにもう一度口を開いて少しだけ笑ってみせてから、やだよ、と言った。

「あんた家に帰って来なそうだもん。喧嘩したら音信不通になりそう」

そうかもな、と彼は呟いた。
そこに、自信に満ち溢れていた昔のような覇気はない。

彼の口から好きだと、そばにいてほしいと言われたのは、奇しくもわたしが限界を迎え、別れを切り出してしばらくしてからのことだった。
お前がいなきゃだめだ、全部直すから一緒にいてくれと。
泣きそうな彼に釣られてわたしは実際に涙を零した。付き合っていても片想いのように不安だった、あの頃のわたしが流し損ねた涙だったのかも知れない。

一緒になるには彼を知り過ぎた。
彼のことは信じている。信じているからこそ、彼がいずれはわたしのことを裏切る余地があることも受け止めている。

わたしたちはいつだってひとりだ。
誰かと分かり合えたつもりになっても、わたしたちは複数にはなれない。

それを知った上で、分かり合いたい気持ちも、分かり合おうとする喜びも、きっとわたしたちの中に深く根付いている。

裏切りも、喜びも、確かにわたしの一部だった。

「まあ、また来世で会おう」

「真似すんな」

不機嫌そうに言われてわたしが笑う。
聞き慣れた吐息をBGMにしながら、わたしはゆっくりと目を閉じる。


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