愛してと叫ぶわたしがいる

わたしは自分の感情にあまり自信がない。
大嫌い、きっと一生関わり合わない、そう思っていたのに友達になるケースだってある。
欲しい欲しいと何日もネットサーフィンしていても、手に入れたネックレスはなんだかイメージと違って付けていないし、空気清浄機も旅行の際電源をオフにしてから帰ってしばらく経つまで付けるのを忘れていた。

好きという感情も例外ではない。

むしろ、一番不安なのは「好き」に自信が持てないことだ。

大好きだったはずのチョコレートが、年齢のせいかあまり食べれなくなった。
昔やっていたピアノが忘れられず、働き始めてすぐに電子ピアノを購入したけれど、忙しくなってしまうと一年は弾かずに放置した。

誰かを好きだ。
わたしが一番夢見ているはずのそんな尊い感情さえ、時に理性に負ける。

ふと考える。

わたしより15センチも高い身長が好きだ。
ぱっちりとした目が好きだ。
大きくてあたたかくて、無骨な手が好きだ。
たまに甘えてくる、慣れていないおねだりが好きだ。
仕事ができるところが好きだ。
寝るとき必ず腕枕をして抱きしめてくれるところが好きだ。
筋肉質な太さが好きだ。
たくさん食べるところが好きだ。
否定せず話を聞いてくれるところが好きだ。
結婚したら小遣い制でいいと言ってくれるところが好きだ。

大好きなところがざっとこんなに挙がって、まだまだたくさんあるけれど、彼じゃなきゃだめな理由が思い浮かばない。

わたしが「好き」なのは、果たして本当に彼なのか。
背が高くて力が強くてイケメンで優しくて一緒に寝てくれるなら誰でもいいんじゃないか、そう言われたとき、残念ながらわたしは否定することができない。

それは恐らく彼にしても同じことで、彼もいくつもわたしの好きなところを口にしてくれた。

女子にしては高い身長。大きすぎない胸。適度なむっちりとした肉付き。彼の行動を制限しないところ。よく笑うところ。過度に女性らしくない服装。よく喋るところ。トップコートしか塗られていない切り揃えられた爪。手が大きいため人よりは長めの指。
それぞれは小さなことでも、彼は何の気無しに口にした言葉だったとしても、彼といるだけで今までのコンプレックスを含め全てを肯定されているようでとても嬉しかった。

なのにたった数年その気持ちを続けてもらうことができない。

初心な学生です、と言える年齢もとうに過ぎ、恋愛や結婚に対しての夢のようなものも徐々に薄れて来た。

何度も失恋を繰り返す中で、「この人じゃなきゃだめなんだ」「この人と結婚したい」といった感情は全てまやかしだと自分に言い聞かせることができるようになってしまった。
次の相手ができれば、時間が経てば、悲しみは孤独と共に風化されてしまうことを頭が知ってしまった。

泣くよね、かなしいね、分かるよ。
今は思う存分泣いて、少しずつ前向いてこ。

そんな言葉が頭の奥から聞こえてくる。

目からは止めどなく涙が流れても、皮膚と骨と少しの神経を隔てたこちら側では、それをなんとなく他人事のように眺めている。

これからLINEする相手が、甘えられる相手が、無条件で肯定し合える相手がいなくなることへの恐怖。

わたしはこれから一人になるのだという恐怖。

そういったものと、彼に会えなくなる、抱き合えなくなることに対する純粋な感情、どちらが強いのか今のわたしにはもう分からない。
そして、こんなに好きなはずなのに、好きなせいで泣いているのか寂しさに怯えて泣いているのか分からないことが切なくて、また涙が出る。

「好きになってくれた誰か一人にさえ愛し抜いてもらえない」ような自分を愛せなくて、愛せないからこそ未来に期待ができなくて悲しい。
考えれば考えるほどわたしのベクトルはいつだって自分に向いている。そのことに気付いてはさらに自己嫌悪する。きっと自分を許してやれる日は一生来ない。


こんなどうしようもないわたしと仲良くしてくれている人間、友達が、非常にありがたくも数人いる。

自分でさえ受け入れてやれないわたしのことを、わたしの代わりにそっと甘やかして許してくれる人たち。
彼に、彼女に褒められ認められるだけで、わたしは生きていてもいいような気がした。

ここでまったくの余談だが、その中でも特に、単に仲の良い友達とは違う、わたしが何をしても何をされてもきっと笑って抱きしめ合える人間がいるのだけれど、世界が狂っているせいか女の子である。
なんてこった。
わたしは彼女を愛してやまないがわたしの恋愛対象はこれまた狂ったことに男だ。

忘れられない言葉たちも、彼女の存在も、結局はわたしの代わりにわたしを認めてくれていて、おかげでわたしは自分の存在をそこまで悲観しなくて済んでいるのだと思う。

わたしは彼らに何を返せるのか、時々途方に暮れる。

わたしは彼らに会えるだけで、返事がくるだけで声が聞けるだけで満足で、明日も生きていこうと思う。
だけれど、人の感情は目に見えないから、どれだけお互いが努力しても相手の気持ちなんか明確に分かるはずはない。わたしに対する熱量が同じかどうかなんて分からないのである。

そうなるともう我々に気持ちの伝え方も返せるものももうない。ない、ような気がしてくる。

なんとも寂しい話だ。

わたしが彼らに感じている感情と、彼らがわたしに抱いてくれている感情が同じであれば、わたしはいつだって迷わず彼らを抱きしめて頭を撫でながら、「全部大丈夫だよ、わたしはきみのこと大好きだよ」と伝えてあげられるのに。

自分を愛さないと、そんな風な人の愛し方もきっと難しい。

わたしはばかみたいに臆病で寂しがりだから、わたしの大切な誰かに拒絶されるのが怖くて怖くて仕方ない。
だからいつだって周りの人間を切り捨てるのはわたしの方だった。捨てられるのが怖いから、先に捨ててしまう。なんてわがまま。

それでも結局、相手が黙って手放されてしまうということは、わたしが捨てられたことと同義である。

やだ、手放されないでよ。
手を離さないでよ。
振り払えないくらいの力じゃなかったじゃない。

いつだってわたしは勝手に傷ついている。

勝手に傷つけておきながら、いつだって慰めを待っている。


米津玄師さんの“メトロノーム”が好きだ。

どの失恋でも確実に泣ける、最強の失恋ソングだと思っている。
他の曲のように具体的なエピソードや明確な文句はないけど、その分、すれ違い、喧嘩、浮気、どの恋愛の終わりにも共通している切なさが描かれていると思う。

全部好きなんだけど、このnoteも終盤に近づいて来ているので、いくつも迷ったけれど、ちゃんと終わりに向かえそうなところを抜粋しておく。

すれ違って背中合わせに歩いていく
次第に見えなくなっていく
これからも同じテンポで生き続けたら
地球の裏側でいつかまた出会えるかな

気付いたらいつも泣いてしまってるくらいに救いがある。

どんなに隣にいたっていつのまにか溝はできるもので、飽きも来るかも知れないし、前を向き過ぎると横を忘れちゃうし、人間つらいことばっかりだ。
だけど、大切な人に大切だと伝えること、大切な人が一人でも泣かないようにすること、わたしたちの一番の課題だと思う。

できれば一人にしなくていいように。

できれば、二人で一緒に一人になれますように。




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参考:メトロノーム/作詞作曲 米津玄師さん

もやもやを形にしようとしたら形にならなかった

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