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大人になるほど純粋に楽しむことが難しくなったと感じる

子供の頃は毎日が暇だった。
夏休みは特に今日は何しよう、ゲームしよう。遊びに行こう、本や漫画を読もう、と言葉どおり休みの自由な時間を遊びに注ぎ込んでいた。

それでも自分が持っているゲームには限りがあるし、やってみたいソフトは沢山ある。

大人になったら自由に使えるお金で沢山ゲームを買うんだ、それで満足行くまでゲームするんだ、と早く大人になって自由に遊べることに期待していた。

実際に大人になってみると(社会人になり、年月を重ねる毎に)確かに自由に使える金はあるが、ゲームや漫画を楽しめているかというとそうではない。

ゲームを買っても、する時間が確保できない。やってみようかと手に取ってみるも、時間の有限性をひしひしと感じる今は果たしてこれは時間の無駄なんじゃないかと考えてしまうようになった。

永遠と自由時間があると思っていたあの頃とは違う。
1日は24時間しかないし、人生には限りがある。

その中で自分のこの時間を何の得にもならないゲームに使っていて良いのだろうか、と。
※語弊があるが、ゲームのメリットももちろんある。が、それに見合う時間効率云々等、考えてしまうのだ。

そんな考えに至る自分に愕然とした。
純粋に楽しんでいた自分はもういなくなってしまった。

これがある意味、大人になるということなのかと悲しくなったのも事実。

ゲームから得られる効果に見切りをつけ、自分の利益になる遊びは、、となると旅行があがってきた。

旅行も十分楽しいものではあるが、利益がー、時間対効果がー、と楽しさを得るための遊びにそんなものを求めるのもナンセンスなものだ。

さらに感じることは遊び(ゲームも旅行も)にも体力が必要だと言うこと。 疲弊した心身では十分に楽しむことができないし、逆に負担になる。

物事を楽しんでる人、楽しめている人はそれだけで人間的に魅力的だと感じる。

こんな大人になってしまった自分に虚しさを感じるとともに、大人になっても純粋に楽しめる人間になりたいと思う。

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