私にとって書くこと

私は小学生6年生から専門学生までの10年間、日記を書いていた。それがいつの日からか日記が続けられなくなった。仕事をし始めてただ忙しくて時間がなくなったのかもしれない。

けれどこんなご時世で出かける予定は無くなり夜に日記をさらっと書く時間くらいあるのに日記が続かない。書くことが私にとってどれだけ大事で書かない事で自分を見失うのも心に不調をきたすのも1番自分が知っているのに。

大人になるにつれて、誰かを意識した、できるだけ簡潔にとか、わかりやすくとか、何か知識や情報を得るための文章を読むことが多くなった。そんな綺麗にまとまった文を読む度に、SNSや日記に自分の言葉で日常のひと時の事やまとまりのない雑多な文を残すこと少し自信を無くしていた。

それでも友人たちと交換ノートを始めたり、このnoteを始めて、友人たちが日々、何気なく思っていることを書いた文章を読んでいると、その人の価値観に触れられたり生活感や人のぬくもりを感じられて、私にとって読んでてとても魅力的だ。

先日一緒にしりとりnoteをしているなごみちゃんがこんな文章を書いてくれた。この文章を読んでほんとに暮らしの中のおまけや余白って大切だと感じた。こんなふうに日々に豊かさを感じることが出来るなごみちゃんの感性が大好きで自慢の友人だ。

私の友人たちはみんな、私にとって「いいなあ」「すてきだな」と思う感性を持っている。私に大切なことを教えてくれる大切な存在だ。ありがたい。

私はよくも悪くも周りに影響を受けやすい。だからこそ色んな事を吸収できるとも思うがすぐに自分を見失う。だから自分の気持ちとか考えと向き合う時間、自分と会話する時間、自分の軸を見失わない時間が必要だ。その時間をつくる作業が「書く」作業だった。だから日記を書かなくなった最近は自分の気持ちとか軸を見失いがちになっていて「今の私は不感性だな」とふと思うことがある。でも日々何も考えてない訳でもなくて、何も感じてない訳でもなくてふと自転車こいでるときや歩いてるときとか、誰かと話してるとき、色んなときに思うこと、感じる事はあって。でも1日を目まぐるしく過ごしているうちにそんなおまけは消えてしまう。頭にパッと浮かんだことをその場で書き残してくれる機能があったらいいんだけど。(笑)

それでも心の中がざわざわしすぎてその正体が分からな過ぎて、私は先日、1か月ぶりに日記帳を本能的に開いて頭に浮かんだことをばーーーッと書き始めた。心と頭が限界だったのだろう。

そんな時の文章というか独り言、言葉、単語は素直だ。周りの音さえも気にならないくらい無心に書き続けた。

綺麗に書こうとかそんなことは思わなくてもいい。この「書く」という作業が私には大事なんだろう。

しかも手書き。

先日久しぶりに作業療法の教科書を読みながら実感した。

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紙やインクの香りを感じながら、書く感触、書いてる筆圧を感じて

「あ。私、今ここにいる」「自分がある」って感覚。

これからもそうやって周りを気にせず等身大の自分を出せる場を大事にしよう。


読んでいただいて、ありがとうございます。 自分のために書いた文章が 誰かの心にも何か残ったら嬉しいです。