言葉に身を委ねられるようになったかもしれない。
頭でっかちにならずに、文章を書けるようになりたい。
言葉って、不思議だなぁと、いつも思います。
それと同時に、ことばを、自己表現のツールの主に置いてしまうのが、怖いとも感じる。
たとえば、「雨上がりの森の静けさ」という、言葉を読んだとします。
たとえ、今電車のなかにいて、人混みにまみれていても、
その文を見つけたら、一瞬、意識が森に飛ぶかもしれないけれど、
そこで、鮮明に森の癒しを呼び戻せるのは、今までのどこかで、その、マイナスイオンとか、空気感とかを、
無意識のうちに体感できていたからであって、
でも、活字にとらわれれば、とらわれるほど、その、本当に大切な、体感することから、どんどん離れていってしまうような気がして、
ことばって、ほんとうに、実体のないもののような気がして、
怖くなります。
なにもかも、なくなっていくような…。
でも、今日、ようやく、ことばについて、信頼感を持てるようになる、考え方を見つけました。
それは、文章を書いている過程で、頭の中のイメージが、ぼんやりしてしまって、何もなくなって、
そこで初めて、腰を上げて、散歩でもすればいいのでは、ということです。
わたし、小学生のころは、特にファンタジー小説が好きで、よく読んでいたのですが、
いつのまにか、「文字は、もとはといえば、記号の集まりで、そのイメージは経験に基づくもので…」と、ぐちゃぐちゃ考えてしまって、
活字に、身を委ねることができなくなっていました。
でも、今、夜の10時ですが、歩きながらnoteを書けていて、
昼間は、パソコンの前で、勉強をしていて、ずっと文字とにらめっこしていて、
いくら、日中に、活字に入り込んでも、
夜、noteを書くために外に出てみれば、夜の静けさを、肌でちゃんと感じられて、
これだったら、自分の気が済むまで、文字の世界に没頭してしまっても、安心して、その場にいられるかもしれないと、少し希望が持てました。
それに、音楽をききながら、勉強や読書ができたら、
感覚にも身を委ねながら、本も読めるわけで、
なんか、結構、この気づきは、うれしい…。
noteを書くことに、一区切りしたら、声に出して話すことが怖くならないように、
音声でも録音をしてみて、
お家に帰って、シャワーをあびて、布団に入る。
なかなか、いいルーティンのような気がします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?