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ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第四章 ー 2 【、を×める】

***

「パートナーは解消しましたよね」

 私を出迎えた氷山は、ひどく冷静にそう言い放った。
 氷柱つららのように鋭い一言に、胸を一突きにされる。

 玄関まで通してはくれたものの、部屋のなかに招き入れる様子はなかった。

 ああ、やっぱり氷山には新しい女王様がいる。

 妄想は確信へと変わり、胸の業火は劫火ごうかへと変わった。
 新しい女王様との世界なんて、いますぐ溶かしてやりたい。

「あのあと……」

 氷山が切り出し、私は思わず「えっ?」と声をあげた。

「あのあと、部長が騒いで大変でした。火山さんが急に飛び出すなんてどうしたんだ、俺がなにかまずいことでも言ったのか、と」

「……そう」

「一言、連絡した方がいいと思います」

 いつもはろくに話さないのに、どうしてこんなどうでもいいことは話すのだろう。
 無神経な唇が、私を映さない瞳が、許せない。

 私は握りしめて皺皺になっていたエコバッグを、氷山目がけて思い切り投げつけた。

 レザーの鞭、拘束テープ、赤と黒の縄、口枷、蝋燭、様々な形状のバイブレーター。
 いかにもなデザインが施された無数の箱が、ばらばらと音を立てて散らばっていく。

 いくつもの球体が連なった樹脂の塊も、手枷のようなものが四つついた棒も、いったいどう使うのか私にはわからないけれど、もしかしたら氷山は知っているかもしれない。
 もしかしたら氷山は好きかもしれない。

「ねえ、氷山はどれがいいの?」

 たっぷりと皮肉を込めて言った。

 唇が不思議なくらい笑ってしまう。
 どうして笑っているのか自分でもわからないけれど、それは演技ではない笑いだった。

 辛くて泣きたいときもあれば、辛くて笑いたいときもあるのかもしれない。

「教えてよ。どれがいいの」

 繰り返し訊いても、氷山はなにも答えなかった。
 そのままの顔で、そのままの姿勢で佇まれ、苛立ちが一足飛びで爆発する。

「どれがいいのかって訊いてるんだけどっ」

「パートナーを解消しようと言ったのは、火山さんですよね」

 氷山は私の言葉を遮るようにぴしゃりと言い、ため息をついた。
 腹の底に溜まった汚物を吐き出すような、うんざりした長いため息。

 私はもう、お呼びではないのだ。
 氷の世界には入れてもらえない、招かれざる客になってしまったのだ。

 詩織様の下僕だった氷山はもういない。

 微かな期待を抱いて、勇み足でやってきた自分があまりにも滑稽で、また笑いそうになった。

 私は深呼吸をして、込み上げてくる想いをどうにか整える。

「氷山……」

「なんですか」

「私、女王様でも、なんでもやるから……。だから私を、私を氷山の世界にいさせて」

「僕の世界?」

 深呼吸はまったく意味を成さなかった。
 感情が暴れる。
 言葉が暴発する。

「私、いたいの。氷山のなかにいたいの。氷山のなかに、居場所が欲しいの……。なんでも。なんでもやるから……」

 欲望、哀しみ、喪失、嫉妬、怒り、憎しみ。
 ありとあらゆる感情が混ざった濁流が両の目から溢れ、頬を滑り、落下していく。

 きれいで汚い、単純で複雑な色をした涙。

 涙を流しながら女王様を志願する女なんて、どう考えても女王様失格だ。
 そんなこと、初心者の私でもわかる。

 だけど感情や涙腺をコントロールできるほど、私は冷静でも利口でもなかった。

 女王様なのは見た目だけ。
 きっと私には女王様の素質なんてない。

 それでも、氷山の世界にいられるのならなんでもやる。

 もがき、足掻き、しがみつく。

 人を好きになることと、自分のを失うことは似ているのかもしれない。
 いや、私は自分を失ってはいない。
 私は私の意思でここへ来た。
 誰かに強制されたわけでも、脅迫されたわけでもない。

 私は自らの意思で、新しい自分を、新しい世界を形作ろうとしているのだ――。

 俯いていると、ふ、と息が降ってきた。
 誘われるように顔を上げると、氷山の薄い唇は、笑っていた。

 ネジが吹っ飛んでしまったように。
 なにかが壊れてしまったように。

「ひ、やま……?」

「あ――――――っ! これを待ってたんだよ、これを――――! いいね、いいねえ! いい顔だよ、詩織ぃぃぃいいい!」

 どういうこと。
 これはいったい、どういうこと。

 両手を震わせ、歓喜と狂気の悲鳴をあげている、この男は誰。
 目尻と唇の端がぶつかりそうなくらい、満面の笑みを浮かべている、この男は誰。

 化物のようなきれいな真っ白い手が、生け贄を捕らえるように私の肩を掴む。

 足元の薄氷が、静かに急速に割れた。
 頭の先から足の先まで、私は冷水に浸かる。
 冷たくて、暗い。

 それは私がなにより望んでいた、氷の世界。

「ねえ、詩織。はじめてここへ来てから、僕のことをずうーっと、ずうーっと考えていたでしょう? 僕はね、これを待っていたんですよ。そのために下僕ごっこなんて屈辱的なことまでしたんですよ。どうしてそんなことを、という顔をしていますね。だって普通にパートナーになっても、そんなのはつまらないでしょう? ああ、嘘が嫌いって言ったのは本当ですよ。嘘は嫌いです。でも、僕に嘘を吐くことは詩織をひどく苦しめたでしょう? 僕には最初から嘘だとわかっていたし、詩織が苦しんだのなら、それは許してあげられる嘘です。僕とパートナーでいるために女王様の演技をする詩織の姿。必死で必死でかわいくてかわいくて――どれだけ僕が自分を押し殺していたかわかりますか? これまでのことはすべてカメラに撮っておきました。この部屋にはカメラを幾つか仕掛けてあるんですよ。詩織が頑張って女王様の振りをしている姿も、嘘が嫌いと言われて動揺している姿も、泣きながらパートナーを解消しようと言っている姿も、すべて残しておきました。パートナーを解消してからの気落ちした詩織もよかったですけど、さすがに会社でカメラは回せないので、あれは瞼に焼きつけておきました。

 寂しかったでしょう?
 哀しかったでしょう?
 辛かったでしょう?
 後悔したでしょう?

 まさか、ここまで思い通りにいくなんてね。

 詩織は本当に素質があります。そうだ。せっかくですから詩織が僕に用意した玩具は、僕が詩織に使ってあげますね。詩織はどれがいいですか?

 ――なんて、訊くわけないですけどね。
 選択肢なんて、詩織にはないんですよ。今も、これから先も、ずっと永遠に」

 目の前の男がぺらぺらと話す言葉は、どれもこれも私にはうまく届かなかった。
 この男は本当に氷山だろうか?

 猜疑心を払うように、男の生温かい舌は私の眼球をべろりとぬぐった。
 クリアになった視界で、私はもう一度、目の前の男の顔を確認する。

 ああ、よかった。

 氷山の笑っている顔も、乱れている顔も、やっと見ることが出来た。
 私だけが知っている氷山の顔。

 特別な、特別な、私だけの氷山の顔。

 この顔をこれから先も、その先も、私は永遠に見ることができるらしい。
 

「始めましょうか、パートナーを」
 

 氷山はまた、倒置法でそう言った。

 ―― 了 ――

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