怒りをこめて語られる〝平和的生存権〟というもの──川口創 大塚英志『今、改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』
本書のあちらこちらからとても力強さを感じてきます、と同時に怒りも。
今回書き下ろされた大塚さんの「はじめに」にこのような一文があります。
「何より、9・11以降、この国では他人の理念を嘲笑い、足蹴にし、執拗なまでに攻撃するという態度に慣れ親しみすぎている。戦場ジャーナリストの死に対し、所詮は金儲けのために戦地に行った、自己責任と切り捨てる態度も同じだ。今回のシリアでの出来事でも繰り返された、拘束された人々をめぐる議論では、一方で自己責任と彼らを突き放し、しかし彼らが殺害されるや否や、かつてイラクでの人質事件の折、自己責任論の発案者の一人だったといもいわれる安倍首相は「テロリスト」に「罪を償わせる」と叫ぶ。
人の死を弄ぶとはこういうことだ。
しかし、そのあさましさもスルーされる」
これは同時に危機でもあります。
「二〇一五年に入っての与党協議は、閣議決定の内容すら飛び越える議論が平然と行われています。憲法を無視した軍事政策が怒濤のごとく進められています」
これを危機と感じない鈍さをいつの間にか私たちは身につけてしまったのでしょうか……。
その今だからこそ2008年4月17日に名古屋高裁が出した「自衛隊イラク派兵違憲判決」の持つ大きな意味を忘れないためもこの本の復刊を願ったのです。
この裁判は「憲法を使ってみる」という実践として行われたものでした。なんのために? 劣化ウラン弾の被害も含む「イラクの子どもたちを戦争被害から守る」ために起こされた訴訟でした。
この裁判記録を綴ったこの本にはいくつものヒントが隠されています。私たちが行政府や立法府に対して異議を持った時どのように訴訟を起こせばいいのかも、その一つです。
「現在の裁判制度の中では、国が憲法違反と思われる行為を明らかに行なったときに、国民がそれを正そうと司法に訴えるにしても、民事裁判という形をとらざるをえないのですね。つまり正面から憲法判断をして、行政府や立法府の過ちを司法が正しなさいということを国民が裁判という形で是正する、そういうシステムが存在しない」
それゆえに川口さんたちは民事訴訟を起こしました。ただし、司法に憲法判断をさせようという狙いをこめて。
結果は……「主文では形式的に敗訴ということ」になりました。ここは誤解を生むといけないので本書にあたっていただきたいのですが「損害賠償」「違憲確認」「派兵差し止め」に対して退けられたのですが何よりも肝心な「違憲判決」を勝ちとることができたのです。この「違憲確認」と「違憲判決」との違いも詳しく本書では説明されています。
そして国は勝訴することによってかえって「イラク派兵が違憲であるという判断」を上告して覆すことはできなくなったのです。
そしてもう一つこういう判決文が出されました。
「この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができると場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある」
「「平和的生存権」というのは戦争の恐怖に脅かされず生きる権利のことで、そういう権利が基本的人権の一つだと判決は認めたのだ」(大塚さん)
言葉だけを武器にこの理念を戦い取ったことの意味は大きいと思います。
では「憲法解釈の最高責任者は、選挙で選ばれた議会によって選任された内閣総理大臣だ」という安倍晋三首相の理念は正しいのでしょうか。
大塚さんはこう記しています。
「この判決がたった今、意味をもつのは、憲法の解釈を裁判の形で、司法に求めることことができる」し「安倍首相は解釈変更をできるのは「私」と言い切ったが、司法に憲法判断を求めるという形でぼくたちは憲法条文の「解釈」にコミットできる」のです。
「平和的生存権をこの国の外に普遍化すること」、それは安倍首相のいう積極的平和主義などという理念を吹き飛ばすものであるように思えます。
書誌:
書 名 今、改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む
著 者 川口創 大塚英志
出版社 講談社
初 版 2015年5月26日
レビュアー近況:大学同期の仲間の一人が闘病の末、亡くなりました。学食の丸いテーブルに三三五五集まってメシ喰ったり、間に合わせの課題やレポートやったり、昼過ぎから夕方までみんなで延々ダラダラしてたのが懐かしいです。スマホや携帯はおろか、ポケベルすら持ってなかったのに、なんだかんだみんなちゃんと其処に居ました。その一人がもうやって来ないのは、本当に残念で寂しいです。
[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.11.02
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4370
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