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名高い実証戦史家が描き出した、日本人と〝病〟との戦いを描いたもうひとつの歴史──秦郁彦『病気の日本近代史 幕末から平成まで』

「鴎外の一番確かな仕事というのは何とビールの利尿作用という論文なのです」という加賀乙彦さんの一節には思わず笑ってしまいましたが、森鴎外が脚気の原因を細菌に求めていたことはつとに知られています。この脚気の被害は甚大なもので、日清戦争では28万人以上が入院4千人以上が死亡、日露戦争では11万人が入院6千人近くが死亡していました。当時は脚気は伝染病に分類されていたといいます。鴎外の考えも当時としては当たり前のことだったのかもしれません。

それはこの章に続く第三章「伝染病との戦い」で詳述されているように、その頃はチフス、マラリア、コレラ等さまざまな病原菌が発見されました。そして、世界中で未発見の病原菌を求めて医学者が苦闘していた時期でもあったからでしょう。けれどそこには技術(医療機器)の限界がありました。野口英世にふれ「光学顕微鏡をいくらのぞいても、ウイルスはみつからない」という一文には胸ふさがれる思いがします。(『野口英世の生き方』星亮一著の引用より)

戦史研究家として秦さんの著作には、実証史家としての方法が貫かれています。この本でも豊富な資料とその分析、定説におもねることなくひとつひとつ積み上げていく秦さんの研究方法は遺憾なく発揮されています。
先の脚気原因究明の顛末もそうですが、「第一次世界大戦の三倍以上に当る三〇〇〇~五〇〇〇万人の人命を奪ったスペイン風邪」の話や、結核をめぐる「長期戦」、それは数多くの文学者、芸術家、学者たちの病歴、それをめぐるさまざまな物語の紹介も含めとても興味深いものになっています。

秦さんの専門の軍事では戦死の実態が追求されています。
「戦死と戦病死の比率で見ると、緒戦期の南方作戦では5対1だったのが、中期以降の諸戦場ではたちまち逆転する。たとえば十七年夏から半年つづいたガダルカナル戦では、投入兵力約三万人のうち二万人が戦没、うち一・五万人が戦病死だから、比率は1対3になる。また三年近く戦ったニューギニアの第十八軍は十一万人のうち十万人が戦没し「其
大部分は栄養失調に基因する戦病死」と安達軍司令官が記したぐらいで、比率は1対10を上まわった」
英霊と死後に称えられようと、かれらはは戦争指導部の補給線、衛生管理等が原因の政治指導者や政策立案者による死者であったことをも忘れてはならないと思います。

では現在の健康管理はどうなっているのかを問うたのが最終章の「肺ガンとタバコ」の章です。
「喫煙率と肺ガン死亡率の関係をチャート化してみて気づいたことがある。この半世紀ばかり一貫して前者がゆるいカーブで下降しているのに、後者は六〇倍もの急角度で激増しているのだ。喫煙率が減れば、肺ガンは減るはずなのになぜ、という疑問に誰も答えてくれない。しかたなく自力で究明しようと向かったのが、東大医学部の図書館であった」
その結果、秦さんが達した結論は目から鱗が落ちるものでした。ぜひ一読ください。

日本医学史に独力で挑んだ秦さんのこの本はこう結ばれています。少し長いですが
「酒もタバコもやらぬ菜食主義者のヒトラーがひきいるナチス・ドイツは、権力で病的人間を排除する「健康ファシズム」国家をめざした。昨今のとどまるところを知らない健康志向の風潮は、国際機関や国家が個人の自己決定権を否認して介入を強めていく点で、ナチスの思考法に似ていると危ぶむ人が少なくない。しかも、その過程であやふやな医学的根拠をふりかざした非同調分子への差別や迫害を、当然とする空気が形成される」
「近代日本の医学は感染症、ついで結核の制圧に成功し、世界一の長寿国家となり、残された目標はガン、心臓、脳血管の三疾病に絞られてきた。その克服に向け、多大のエネルギーとコストを投入しているが、効用の限界に近づきつつあるようにも見える。ガンをもし絶滅できたとしても「平均寿命を二年ないし三年のばすことができる」程度だとすると、そろそろ思考の転換を考えてよい時期にさしかかっているのではあるまいか」

さて、私たちはこれにどう答えようとしているのでしょうか。

書誌:
書 名 病気の日本近代史 幕末から平成まで
著 者 秦郁彦
出版社 文藝春秋
初 版 2011年5月25日
レビュアー近況:昨晩は全仏オープンテニスの渦中、再選したばかりのFIFA会長電撃辞任のブレイキングニュースに驚きました。レジェンド選手たちが続々会長選への出馬を匂わす発言をしておりますが、野中が大好きなルイス・フィーゴにも再びチャンスが巡ってきました。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.06.03
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3579

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