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新たな民俗学の提唱であり、「自発的な復興」を夢物語にしないために書かれたものです──石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』

巻頭の数枚の写真にまずは驚かされます。大屋根に押しつぶされ倒壊した鎌倉八幡宮、7階から折れた浅草の凌雲閣……これらは「震災を撮った写真を載せた絵はがき」なのだそうです。被災地の絵はがきというものは今では考えられないものですが、メディアの未発達だった当時ではこのようなものが情報を伝え、残す手段だったのかもしれません。

この本では38人以上にもわたる文学者、ジャーナリストたち、あるいは当時の雑誌が取り上げた体験記を掘り起こし、その大災害をその人たち自らが見聞きしたものを17の地域と震災後の「流言蜚語・虐殺」「復興・防災」に分類して取り上げたものです。永井荷風のように日記として残されていたものありますが。民俗学の方法でもあるのでしょうか、発表されたままを記していきます。

ここから浮かび上がってくるのは一口に震災体験といっても、同じ東京でもその被害の差が大きく異なっているということでした。
被服廠跡の大惨事、放置された被災者に心ない振る舞いをする老母の姿、苦しむ人に向かって宗教を説く人たち……。その記録の中に石井さんは、「被服廠跡における救済が公的な救護班や救護所によってなされたのではなく、消防に属する民間人によって実現された」ことに注目し、このような相互扶助とでもいったものが各地に見られたことを取り上げています。

その一方でのんきに暮らしていた人たちも確かにいたようです。悠々と(?)「明眸皓歯の美人と盛り場の女中らしい」人を連れて難を逃れてきた里見弴。なにしろ「途中で同じ難に遭って焼け出された美人を拾ってきたそうです」

この里見は噂、流言蜚語についてこういっています。
「噂は「人性の弱点欠点が、次第次第に附加されて行くことだ」(略)「流言蜚語と云うようなものは、無知無恥なあたまばかりを通りぬけて来たごく悪い通信の謂だ。国民の以って自ら恥とし、相戒めなければならないところだ」と述べ」ています。
この「流言蜚語」が大きな悲劇を生んだことはつとに知られています。「鮮人襲来の流言蜚語が飛び、背後に社会主義者がいる」というものでした。
それが朝鮮人虐殺と大杉栄の虐殺を引き起こしたのです。これに触れて石井さんはこう記しています。
「改めて思うに、今回の東日本大震災では、日本人が暴動や混乱を起こさず、冷静に助け合う姿が海外から高く評価されました。確かにその通りですが、被災地では盗難や略奪などの事件があっても、そうした醜聞は取り上げられず、美談に覆い隠されてしまったところがあります。しかし、九〇年前の関東大震災が流言蜚語に溢れていたことは、やはり冷静に見つめておかねばなりません。そうしたことを抜きにして、日本人の国民性を議論するのはあまりに軽率でしょう」
この流言蜚語については、東京から横浜方面へと向かった西川勉の文章にも出てきます。戒厳令下というものがどのような事態であったのかを含めて描かれています。

復興についても柳田国男のある文章が取り上げられています。
「「帝都の復興事業が、あら方完成の域に近づいたと報ぜられるのはうれしいが」と始まります。ところが、それは「物質的一側面だけの事」であり、「市民の精神生活もまた不幸なる障害を受けて居たことは、却て歳月の経過につれて、初めて少しずつ感じられてくるのであるが、それはまだ今日の問題の外である」とします。ハコモノ行政で復興を考えて、精神の復興は度外視されていたのです」
「一般には政治家・後藤新平の手腕によって評価が高い関東大震災の復興も、見方を変えればこれが現実だったのです。被災者の生活再建もままならず、精神の復興が眼中にないことを厳しく批判しています」
これが石井さんがこの本を書いた動機であるように思えます。
多くの史料を渉猟し、多くの貴重な証言で溢れたこの本の底流にある石井さんの思いがここにあります。
「今、東日本大震災の後、露骨なまでに政治が突出するような復興が進んでいます。過去を顧みない方が復興のデザインを作りやすいという考えがあるように思います。意見を持とうとしても、明治や昭和の三陸大津波をあまりにも知らなくなっています。首都直下型地震が起こった場合にも、安政や大正の大地震について知識がないという問題が起こることはすぐにも推測できます」

これは石井さんによる新たな民俗学の提唱でもあると思います。極めて実践的な学として民俗学を考えなおすこと。それが多くの証言を集めたこの本の底流にあるものなのだと思います。
「被災地に限らず、社会はどんどん行政への依存を深めてきましたが、今はもうそうした体質から抜け出せないほど深く染みついてしまっているように感じます。「自発的な復興」を夢物語にしないためにも、『雪国の春』と『津浪と村』は必読するべき古典としてあります」
現在に驕ることなく過去の叡智を訪ねること、それが必要なことなのかも知れません。

書誌:
書 名 文豪たちの関東大震災体験記
著 者 石井正己
出版社 小学館
初 版 2013年8月5日
レビュアー近況:錦織選手、残念でした。試合後、WOWOW解説の松岡修造さん「言っちゃいけないこと言いますよ、日本に帰りたい」。それぞれ、また日本を熱く暑くしてくれる筈です。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.09.01
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4005

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