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いまだ終わっていない「八月六日におそった〈地獄〉とは違うもう一つの〈地獄〉……」。だからこそ語り継がれなければならないのです──半藤一利・湯川豊『原爆の落ちた日【決定版】』

この本のあとがきにも記されているように「NPT(核拡散防止条約)体制がつい先日崩れ落ちました」今年5月のことです。中東の非核化について合意ができなかったのです。最終文書の採択に失敗したのは2005年の会議以来です。(このNPT会議は5年に1度開催され、文書の採択は全会一致でなければなりません)

奇しくも原子爆弾投下から50年目にあたる年についで、70年目にあたる本年もまた採択することができませんでした。それどころか今年、2014年のロシアによるクリミア併合時には、ロシアは核兵器を使う準備をしていたということが明らかになりました。さらに日本では安保法制の参議院での審議の中で核ミサイルは弾薬という定義に含まれるため、自衛隊での運搬が可能であるかのような答弁が安倍政権からなされました。くわえて化学兵器も弾薬に含まれるとも……あげくは核の保持もできるような声すらも出てきました。いつから非核三原則がいつ空文化されてもおかしくないような事態に私たちは陥っているのでしょうか……。

だからこそ、それゆえにこそ、核のない世界をめざすためにも、私たちは歴史的な経験を忘れず、日本の原爆の記録と記憶は語り継がれなければならないものなのです。

この本は1941年の日本、アメリカ、ドイツの原爆開発計画から1945年の広島・長崎への原爆投下後の9月6日(終戦後)のある少女の死までが記されています。
それぞれの国でどのようなことが考えられていたのか、国ごとに時系列に綴られていたこの本は1945年になると一挙にその記録の深さを私たちに教えてくれます。
『混乱』と題された第二部では広島の降雪から語り起こされ、戦況の打開をはかるにも圧倒的な劣位を感ぜざるを得ない東京の姿がそこにはあります。
「昭和二〇年一月一日から八月八日までのことを主題に、事実に即してまとめた」という言葉どおり、1945年からは国ではなく、都市、地域ごとに、広島、ワシントン、東京、ロス・アラモス、軽井沢、大西洋上等々とその地で何が計画され、準備されていったのか克明に記されています。

1945年8月はこう記すことから始まっています。
「日本地図の上に広島だけがポツンととり残された。なぜそうなっているのか、市民たちは不審の念を持ちながらぼんやりしていた。(略)楽観的なもののなかには、広島は美しい町なのでアメリカ人は別荘地として残しておくのだ、というものがあった。反対に悲観的な考え方にはアメリカ人たちは広島でなにか大変なことをやろうとしている、というのがあった」
そして8月6日、広島に原爆が投下された日がどのようなものであったのか。町で、市で、それだけでなく、ある建物(練兵場、広場や放送局等)や橋の上で何が起こったのか、そこにあった事実は何であったかをあたう限り詳細に記しています。不謹慎な言い方かも知れませんが、そこには圧倒的な緊迫感と重さがあります。

この本は公的な史料、日記、体験記、被爆者、関係者の談話等を重層的に用いた一大ドキュメントです。
この浩瀚な記録はこう結ばれています。
「原爆の悲惨は、八月六日だけにあるのではなく、長い歳月に渡ってつづくことにある。(略)生命のなかに、目には見えないが否定できない〝死〟を抱いた人間が、どのような不安と苦痛のうちに日々を生きているのか、その人以外に正確には知ることができない。それは八月六日におそった〈地獄〉とは違うもう一つの〈地獄〉であるにちがいない」

そして今の日本についてお二人はこう記しています。
「軍事力の効果を過信する政策をやみくもに進めつつあります。冷静かつ慎重な外交によって国際紛争を打開する機会を逸し、避けるべき戦争に突入する危険が大きくなっている。そんな「この国のかたち」がつくられようとしているのではないか。そう思われてならないのです」
それゆえにこそ私たちはここに残されたものを語り継いでいかなければならないと幾度も思い返させるものでした。

書誌:
書 名 原爆の落ちた日【決定版】
著 者 半藤一利 湯川豊
出版社 PHP研究所
初 版 2015年7月17日
レビュアー近況:日帰り出張で修学旅行みたく京都・奈良へ。それぞれ予想最高気温が37℃・36℃で、微熱と平熱の境を彷徨います。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.08.06
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3908

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