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国立情報学研究所の「データダイエットへの協力のお願い」の危うさ

専門家による「デマ」「フェイクニュース」

 厚生労働省が出した「37.5度以上の熱が4日以上」という基準が流布されたせいで、検査を受けられなかったり受診をしなかったりして容体が急変し、新型コロナ感染症で亡くなるケースが相次ぎました。

 WHO(国際保健機関)が「一般市民のマスク着用に何らかの効果があることを示す具体的な証拠はない」という話が、マスクをつけても意味がないと受け止められて、無症状者や軽症者による飛沫感染の拡大につながった疑いがあります。

 今は、マスクを着ける習慣がなかったヨーロッパでもマスク着用が広がっていますし、WHOが「いかなる状況においても勧めない」と言っていた布マスクを日本では税金を使って全家庭に配布しています。

 新型コロナ感染症に対して社会全体がマスクをつけることによって生じる「効果」と、専門家が想定していた「効果」との間にズレがあったわけです。そのズレが、社会に不利益をもたらしました。

 これは、専門家がどのような言葉で科学的な知見に基づく情報を一般市民に伝えるかという「科学コミュニケーション」の問題です。

 「厚生労働省によると」とか「WHOによると」という枕詞がつくことで、流される情報の信憑性が増し、人びとが不適切な行動へと誘導されることになり、結果として「デマ」や「フェイクニュース」と同じようなデメリットを社会に与えてしまいます。

 したがって、専門家が科学的な知見を一般向けにアナウンスするにあたっては、流布のされ方や受け止められ方を予想しながら、慎重に言葉を選ぶ必要があります。

国立情報学研究所による危うい情報発信

 一昨日(2020年5月7日)に国立情報学研究所が「◆データダイエットへの協力のお願い:遠隔授業を主催される先生方へ◆」という文書を公表しました。

  情報通信回線は全国民が共有する有限の資源です。通信量が情報通信回線の限界を超えるとすべての利用者が大きな影響を受けます。1600万人の生徒・学生が、 この世界的な災禍の中でも十分な学習ができるように、「データダイエット」に協力しましょう。
1. オンライン授業は通信量(データ量)が極力小さくなるように工夫しましょう。
2. 空いた通信回線の容量は、小学校低学年などFace-to-Faceが必要となる教育や障がい者への合理的配慮など必須の分野へ使ってもらいましょう。
(以下省略)

 なるほどなぁと思いつつも、「通信量に配慮した授業の実施・設計手法」というところにあった以下のような記述に遭遇して、流行りの言葉を使えば、モヤモヤし始めました。

1.先生が話す映像を送信する必要はありません。講義中、自分の顔や書画カメラを動画で常時流しておいたりすると通信量は多くなります。学生のカメラもオンにし続けると通信量が増えます。不要なカメラはオフしましょう。
(中略)
5.学生が問題を解くなどの主体的な学びを行う部分はネットワークにつなぐ必要もありません。

 このアナウンスは、「小学校低学年」以外の学年を対象とした授業でカメラを使うことは避けるべきであり、「先生が話す映像を送信することは悪である」と受け止められてしまう可能性があります。

 しかも、教員が問題をメールなどで配信し、それを学生が黙々と解くという遠隔授業が「主体的な学び」を実現する望ましいあり方として推奨されているように見えます。

 「なるほど、とりあえず課題をたくさん送りつけておけば、90分の遠隔授業は主体的な学びを行う望ましい形になるのだから、ビデオ対話システムで話をしたり、ネットワークをつないで学生の質問をチャットで拾ったりする必要はないのだな。」という教員の怠惰に、お墨付きを与えることになってしまいます。

 結果として、「問題を入力してあるパワーポイントのスライド20枚を学生にメールで送りつけ、それをノートに書き写した上で問題を解くという課題を与える教授」が出現しています。

 児童・生徒・学生が「学校」に求めているのは、たんなる知識の注入ではないですし、課題プリントに象徴される取り組むべき「問題」のリストでもありません。

 入学式が終わって1ヶ月も経つのに、先生にも友だちにも会えない児童・生徒・学生たちが「学校」に求めているのは、「人」とのつながりです。

 ディスプレイの向こうで笑顔を見せたり手を振ったりする人がいることは、「不要」なことでしょうか。オンラインで雑談をしたり食事をともにしたりすることは、無駄なことでしょうか。

 小学校低学年でなくても、Face-to-Faceが必要となる教育を必要としている子どもたちはいるのではないでしょうか。

 一見ムダに思えるところ、意味のある活動のあいだに起こる出来事、不要不急の事象の中に、学校が学校として機能するための大事な意味が隠されています。

 オンライン学習やオンライン授業だけではなく、いま必要なのは、猥雑な要素をたくさん包摂した児童・生徒・学生の居場所としてのオンライン学校なのです。

 新入生として学校に向かう通学路での偶発的な遭遇で生まれる友人関係。
 たまたま座席が隣になったために言葉を交わすようになって出来た親友。
 昼休みに何となくサッカーを一緒にやり始めて創られた仲良しグループ。
 掃除当番がいっしょだったことで気心が知れる仲間になった男女3人組。

 そんな物語を奪われた児童・生徒・学生たちから、先生の顔や声、友だちの顔や声を奪い、無機質な課題配信だけで「主体的な学び」が成り立つなどと主張するのは、いったいどういう了見なのでしょうか?

 これ幸いと、課題配信だけで授業を済ませる教員が増加し、少なからぬ児童・生徒・学生たちが「学校」から疎外されてしまったとしたら、いったい誰が責任を取るのでしょうか。

 おまえら「おはよー」とか「元気か?」とか、くだらないことに情報通信回線を使うんじゃねえ!

 「教授」という肩書を持つ多くの教員から発せられている「国立情報学研究所」からのメッセージの背後に、コロナ禍のなかで教育現場が抱えている問題に対する想像力の欠如、情報学的には「くだらないこと」に思えるやりとりによって人間社会が成り立っていることに対する無理解がある気がして仕方がありません。

 データダイエットは必要なのでしょうけれど、専門家としてどのような言葉で発信するかいうことについて、十分に慎重であるべきだと考えます。


 

 

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