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国会答弁と文学教育

 安倍首相が東京オリンピック・パラリンピックについて「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして、完全な形で実施したい」と語ったそうです。

 しかし「人類が新型コロナウィルスに打ち勝った」と言える状態を、今年の夏までに実現するのは困難です。「完全な形で実施」という条件もハードルが高すぎます。だとすれば、「実施」が想定されているのは、今年の夏ではなくて、1年後の夏、いや「人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証しとして、完全な形で実施」というフレーズの含意を考えれば、中国が北京で冬季オリンピック・パラリンピックを開催する2022であると考えたほうがよさそうです。何しろ中国人は、人類の中でも最も早い時期に新型コロナウィルスとの熾烈な戦いをした人たちであるわけですから・・・云々カンヌン

 こんなふうに、政治家の発言はしばしばさまざまな憶測を呼び、行間を忖度したり、言葉尻をとらえて深読みしたり、「解釈」の洗礼を受けることになります。きわめて文脈依存度の高い言語運用が行われるのが、日本の政治の世界です。

 これが、グロテスクなまでに拡大されると、いったいどうなるか?

 みなさんもご承知のように、言語明瞭、意味不明な答弁が大手を振ってまかり通ったり、まったく質問に答えていないのに議事録には答弁として記録されたり、言葉の教育に携わる者としてまったく不可解きわまりない、笑うに笑えない悲喜劇が展開されることになります。

 「朝ごはんは食べましたか」→「食べていません(パンは食べたけどね)」のような「ごはん論法」も、こうした運用を積み重ねてきた国会という言語空間のなせるわざです。

 一般国民の最大公約数的なところを自分なりに言語化すると、以下のような感じでしょうか。

「エライ人(大臣)が言っていることは、なんかちょっと変だとは思うけど、まあ、エライ人が言ってることだから、まったく間違ったことを言ってるわけじゃないよね、きっと。てゆーか、逆らってもしょーがないしね」

 この構造、つまり文脈依存度が高く、言語明瞭、意味不明に見える発言がなされているにもかかわらず、「なんか変だけど、間違いじゃないらしい(正解だ)」ということになってしまう構造。

 これ、どこかで、経験したことがないでしょうか?

 わたしは思うのです。これ、ダメな教師による文学の授業によくあるパターンではないかと。

 あるいは、ダメな教師による道徳の授業とか、生活指導の学年集会とか、全校朝礼の校長の話とか・・・

 行間を読む面白さを私自身は知っているつもりですし、たくさん書いてきた論文もどきの駄文の数々も、そういうことにこだわり続けて書いてきたものです。

 でも、中途半端な文学教育が、国会答弁のようなグロテスクな言語運用を許容し続けるメンタリティーを刷り込むものになりかねないのだとしたら、軸足をもう少し別のところに移すべきではないでしょうか。

(JR・富士急直通特急 富士回遊号3号車11A席にて)

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