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ICTとはなにか

 「ICTはたんなる手段だ」とか「あくまでもICTはツールに過ぎない」というような物言いをする者がいる。大事なのは目的であって、さまざまな手段の中でICTが適切だと考えた時にそれを使えばいいのであって、ICTを使うことを目的化してはいけないというわけだ。同意し難い粗雑な思考であると同時に、ステージから見える大勢の観客をカボチャだと思い込もうとするのと同じような、恐怖に対処するための防衛機制のようなものを感じざるを得ない。

 はたしてICTは、「たんなる手段」なのだろうか。

 ひとまず言えることは、目的を達成することができるのであれば、手段は問わないというマキャベリズムという立場を取らないのであれば、どういう手段で学ぶのかということも大事なことであるということだ。学校教育の中で児童生徒が学習をする際、その大半の時間は、何らかの手段を使って目的を達成するための営みを展開するために費やされている。学習によって何を達成するのかということも大事だが、学習がいかに展開されるのかということも、同じぐらいに大事なことである。
 さらに言えば、どういう手段が選択できるのか、その手段がどのような性質を持っているのかということが、それを使う人間の営みを大きく変容させるということも見逃してはならない。たとえば、紙や文字は情報を保存し、伝達するための手段として使われるわけだが、これらのものの出現が人類に与えた影響は計り知れない。言語もツールではあるが、どういう言語を用いるかによって、人間の精神や思考のあり方が左右されることは、文学や国語に関わって生きてきた者にとってほとんど疑いようのない現実である。活版印刷の発明も蒸気機関の発明も、文書を作ったり物を動かしたりするためのツールが出現したという外形的な事実にとどまらない大きなインパクトを人間の歴史に与えてきた。ホモ・ファーベル(作る人)たる人類にとって、手段=ツールは、自らの存在態様に深く関わる重大事である。

 そもそもICTとは、インフォメーション(I)とコミュニケーション(C)のテクノロジー(T)ということである。3つの要素が一体的に機能することで初めて、人類はホモ・サピエンス(知恵ある人)たり得る。
 たとえば、黒板とチョークも、3つの単語を組み合わせたそもそもの含意を考えれば、ICTに他ならない。垂直の壁面に白い棒で自在に文字を書き、消すことができる道具の出現は、初めて目にした人類にとって驚異的であったはずだ。書かれた文字は、離れていても視認することができ、一度に数十人の教室で共有される。大学などでは、百人を超える学生が聴講する講義室でも活用されてきた。
 そもそも教室や講義室、古くは講堂のような空間を作るためにも、「声」によって一度に多くの人に情報を伝達することを可能にするテクノロジーが必要である。多くの人びとが集い、雨風を防ぎながら声によって知を共有する空間を可能にするテクノロジーが、紙や文字が出現する以前からホモ・サピエンスの存在を支えてきたと言ってもよいだろう。そして講堂のような空間も、黒板やチョークも、それらが発明されるたびに、教育という知を共有する営みのあり方を進展させてきた。
 毛筆が鉛筆に取って代わられたことも、「たんなる手段」というあり方を超えたところで、学びの時間の質を変容させた。たとえば、『銀の匙』全編をまるごと扱う探究的な授業実践で知られる灘高の橋本武は、当時としては最新のテクノロジーと言えるガリ版印刷を駆使して教材づくりをしていた。戦後、復員兵として教育活動に関わり、農村のサークル活動などを組織した教育学者の大田堯も、これまた当時としては最新のテクノロジーと言えるカセットテープを活用して学びの場を創出していた。21世紀を生きる者の目の前に出現しているのは、世界中の膨大な情報にアクセスし、物理的な制約を解除して人びとをつなげることを可能にする新たなテクノロジーである。活版印刷や蒸気機関に匹敵するような人類史的なテクノロジーの進化が、「たんなる手段」であるはずはないのだ。
 「ICTはたんなる手段に過ぎない」というような物言いには、「目的に応じてデジタルとアナログを使い分けることが大切だ」というようなフレーズが続くことが多い。GIGAスクール実現推進本部の設置に合わせて公表された文部科学大臣のメッセージの中に「これまでの実践とICTのベストミックスを図っていくこと」が求められていることを受け、「デジタルとアナログのベストミックス」というフレーズを目にすることも増えている。
 「ベスト」を求めるという話なので頭ごなしに否定することはできないが、こうした物言いがアナログの世界に居座ることのエクスキューズになっているのだとしたら問題である。いくらアナログとデジタルのベストミックスがよいと言っても、21世紀の今日、公務員が毛筆や万年筆で公文書を作成したり、経理担当者がそろばんとボールペンで帳簿をつけたりする必要はない。公文書作成や帳簿作成のためにアナログを使うのは、非効率的であり、非合理的であり、「ミックス」させる必要すらない。
 平均余命を考えれば、現時点で児童や生徒として学校教育を受けている世代は、22世紀に至る時間の中で社会のあり方が激変していく時代を生きていくことになる。もちろんアナログの意味や価値がまったく消えるわけではない。むしろ稀少性ゆえに、万年筆やそろばんのようなアナログツールが、文化的な価値を高めていくということはあり得る。しかし、その量的な拡大とともにデジタルツールが社会にもたらす文明史的な意味や価値の高まりに比べれば、アナログツールがこれからの時代において果たしていく役割は、限定的で部分的なものにとどまるはずである。
 したがって、「デジタルとアナログのベストミックス」という主張を前にした時に求められるのは、「デジタルでもアナログでも可能な活動では、デジタルを選択せよ」という対抗言説なのである。さらに言えば、アクセスし得る情報の量的拡大にきわめて有効であり、情報を伝達し合う他者の範囲を飛躍的に広げる可能性を有するデジタルツールの活用は、「探究」という枠組みの可能性を最大化するためには必要不可欠なのである。



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【注記】
 先月(2023年3月)刊行された『早稲田大学国語教育研究』第43集の特集「探究的な学びとICT」のために書いた「国語教師はICTといかに向き合うべきか―探究的な学びとデジタル・トランスフォーメーション」の草稿の一部(第二節)である。ウェブ閲覧用に改行を増やすなど、若干の加筆修正がほどこされている。

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