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「ドライブ・マイ・カー」に救われるタイプの人間

だいぶ前なのですが、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。

この頃、割と私はメンタルがボロボロの時期でした。
とはいえ個人レベルの些細な理由ではあったので、もうどうしようもないものを抱えた登場人物たちに対して共感した〜だなんてとても言えないのですが、それでも一瞬どこか救われたような気がしました。
そんな映画です。


公式サイトはこちら↓


1人の人間としても1人の役者としても非常に興味深い映画で、ここ最近劇場で観た映画の中では1番好きかもしれない!ので感想を書いてみました。

主に劇中劇や演出、俳優さん方についてです。


以下、
【ネタバレあります】
【観た直後のメモを元に書いてるので記憶違いがある可能性も高いです。ご了承ください。】

1.「ドライブする」映画


急発進も逆走もせず、タイトル通りドライブをしているように3時間淡々と前に進み続ける映画。
過去の話も役者さんが"語って"くれるくらいに思っていたら、なんと回想シーンは全く無かったらしい。

……本当に前にしか進んでいなかった。

おかげでより現実みがあるし、一緒に過ごしているような気持ちになるし、小説を読んでいるような気分にもなれる。

なにより「時間は戻らない」「"今"しかない」ことが強調される。
これは過去に引っかかりのある人間にとっては受け入れ難い事実ではあるのだけれど、不可逆であるからこそ最後の小さな再生が生きているし、私たちも前に進みがいがある、のだと思う。

2.芝居は現実を写し取る


主人公家福は俳優であり演出家。
作中では「ゴドーを待ちながら」「ワーニャ伯父さん」を言語の異なる役者たちで上演する。


私も俳優人生志望だからやっぱり気になる。
この多言語舞台、観てみたいし参加してみたい。
私は観たことないけれど、実際こうした多言語舞台を上演する試みは過去にも様々な場所で行われているらしい。

言葉の通じない相手とお芝居をすること。

まず、台詞の(表面的な)意味を読んで全てを理解した気になって、相手の言葉に対して"きっかけ"という記号的な捉え方をしてしまうのは悪い芝居。

多言語舞台だと、相手の言葉の意味がわからない分、そうしたことに陥りやすい面もあるかもしれない(作中でも家福はダメ出しで「相手の台詞を自分が動くきっかけにしてしまっている」と言っている)。
ただ、おそらくそうなってしまったときにやっている本人が自覚しやすそうという良さもある。


言葉というノイズが混ざらないからこそ相手を注視して探る、理解しようとする、相手を言語以上の場所で"感じる"ことができる。


相手の様子を見つめたコミュニケーションをより強く意識できるようになるから、本来の芝居のあるべき姿を追求できる。
これ、難しいだろうけど楽しそう。


「私にとって言葉が分からないことは日常。でも私はそれ以上の物を感じることもできる。あの稽古はそういうことでしょ」

そう話す韓国手話を使う役者さんがこのやり方と相性が良く描かれていたのも印象的だ。手話は手だけではなく表情や勢い込みの言語だから。


ちなみに、家福は棒読みの読み合わせをして極力役者自身の思い込みとノイズを捨てていくことでテキスト本来の意味を受け取っていく稽古の手法に拘っている(これは思い込みが激しくなりがちな私もやっていきたいやり方)。

思い込むと見えなくなるものは確かにある。
それは台本に限らず日常生活のあらゆること、特に対人間では尚更である。


その境地の表現ができる/できないかは別として、本当に、お芝居は現実を写し取るみたいなところがあるよななんて改めて思う。


私は舞台が好きだから劇中劇のシーンと稽古シーンがどうしても気になってしまうけど、作品自体、この辺りは物語だけではなくて演技論みたいな話にもなっているように思う。


例えば、「他人を完璧に理解はできない。他人を理解しようとするには自分の深いところを覗く必要がある」みたいな台詞。

実際、こういうことはよく言われる(そしてやると難しい)。


家福の高槻という人物への評価や、その他劇中劇に関わらないパートでの役者の映し方1つ1つにも、意識的か無意識的かは関係なく、濱口監督の思う良い芝居・価値観・そこから生まれている作風が見えるような気がして面白い。



演技論と人との関わり方への言葉が重なりあう。さらにそれが人生へ向かっていくのが、いち役者として観た時にまずこの作品をすごく好きだと感じたポイントだった。



クライマックスでもある舞台シーンの最後は例の韓国手話で紡がれる。

家福の演じるワーニャはソーニャの手の示す方を観る。台詞のせいなのかそういう演出なのか、それによりワーニャ(家福)の目線は上を向く。

小さな息遣いしかない言葉の中で観客は2人の細かい表情に注目する。

呼吸は"生きている"ということ。
"人"がいるということ。

小さな変わり方だけど、私たちはこのシーンに大きな心の変化を見る。暗転で灯りが消えても希望のような1つの小さな灯りが灯り、現実でも答えを出した家福の道と合流する。

家福にとって現実世界のソーニャだった三浦さん演じるドライバーのみさきもまた、客席でそれを眺めて自分の中の希望を再確認しているのかもしれない。




なんて、この作品はお芝居とリンクしながら言語外でもコミュニケーションを取ろうとしているけれど、作中冒頭で家福夫妻は言葉でのコミュニケーションもうまく取れていない。現実は難しい。

3.見つめたくなる人々


お芝居ももちろん素敵。


西島秀俊さんの家福からはどうしようもなく理性的に生きてしまう人間が負う苦しさが滲み出ていて寄り添いたくなる。そしてかっこ良い。


その反対の直情型俳優・高槻役の岡田将生さんについては岡田さんこんなにすごいんだ!?ってなった。詳細はぜひ作品を見て欲しい。
私はオーディションと車のシーンが大好き。

音を魅力的だと言う高槻は、音に恋をしていた、もしくは愛していたというよりも自分の存在や物語について考えるために"自分の見ていた音"に縋っていたのかなぁなんて感じてしまう。


女性陣も本当に素敵で、

三浦透子さんの淡々とした中での揺れや物語る瞳

韓国手話を操るパクユリムさんの表情、息遣い、柔らかい手の音

霧島れいかさんの不気味さ酷さ美しさ、謎を残しながらも「もしかしたら」と最後になって観客に想像させる人間らしさ


霧島さんの"家福音"といえば性行為のシーンもすごい。

本作における性行為は、繁殖行動という動物の本能を思わせる"生"の表現(こういうとき私は「火口のふたり」を思い出す)とは反対の、心情や関係性のような"人間の行為"として行われているように見える。

これはオーガズムから創作の糸をつかむ音の性質によるところも大きいと思う。
彼女は性行為によって物語を"産んで"いる。物語を語る生物は(分かる範囲では)人間しかいない。


他の方々も、それぞれがそれぞれのポジションで持っているべき魅力を溢れんばかりに出していて目が足りない。
……舞台と違って映画は視点が固定されてるはずなのに目が足りない……

人の心は複雑。
誰かを激しく憎みながら愛していたり、悲しいのにそんな自分が面白く感じたり、1つの名前だけでは説明がつけられない。


映画の中では登場人物たちがそうした心たちを静かな芝居の中で昂らせる。
各々矛盾や自分でも正体の分からない心を"1人で"抱えて生きているのが本作で、"他人"である観客には必要以上に開示されないからこそ1人1人をじっと見つめていたくなったのかもしれない。


そんな感じです。

本当に情報量と考えたいところが多すぎてメモとりながら観たい……


ちなみに観終わった後にこのインタビューを読んだらまた観たくなりました。


正直語りたいこと気になったことはまだまだあるんですけど、キリがないのでやめます。


下のは鑑賞後、劇場から観た空が綺麗で震えながら撮った写真。


人生は立ち止まることはできても逆走なんてできなくて、過ぎた風景を思い出しながら前に進むしかないから

って思えます。

音の言葉が明かされなかったように、どうせ他人が何を考えていたかなんて推測はできても正解は本人にしか分からないんだから。
過ぎた風景は都合よく解釈して、反省して"正しく傷つい"て、生きていくにはそれくらいが良いのかもしれない。

運転したいな〜〜🚗(byペーパードライバー)

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