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月が見ていた

写真家である小林紀晴さんの著書『写真はわからない』を読了。著名な写真家として活躍する氏であっても、写真の究極は「わからない」に尽きるという内容。例えば、日没前の刻々と変化する空の色、わずかな光線の違いで表情を変える静物、あるいはフォーカスの具合で違った表情を見せる風景など、突き詰めようとするほど写真はわからなくなる、という実感と経験を綴った「写真論」エッセイ。かくいう私も、カメラ片手に街中を撮って歩く趣味があり、連写した中にも微妙に印象の異なる写真が撮れることを体感している。ひとつとして、同じ写真は存在しないのだ。

ひとつだけ、何度も再現を試みても似たものすら撮れない写真がある。望遠鏡を使って撮影した「月の写真」です。イマドキ気の利いたカメラならクレーターまで撮れるよ?とお考えになる方も多いと存じますが、月面写真というのは実は奥深い、技術だけでは極めることの難しい対象なのです。その理由のひとつが、静止画でなく動画で月面を撮ってみるとよくわかります。

動画をGIF化しました

月面がユラユラと揺れている様子が観察できるでしょうか?地表から撮った月は、大気の影響をモロに受けるのです。シンチレーションと呼んでいます。
このユラユラのせいで、いまひとつシャッキリしないトボけた写真になってしまう。まず第一に月面撮影には、「大気のコンディション」が重要な要素になるのです。

次いで撮影者を悩ませるのが「暗部ノイズ」の問題。暗い場所を高感度で撮影すると、センサ自身の放つノイズが乗ってしまう。フィルムカメラの時代、高感度フィルムは熱輻射に感光する問題を抱えていて、カメラマンと言えば小脇にクーラーボックスを持つ姿がよく見られました。デジタルカメラの現代ではそんな姿も見かけなくなりましたが、それでもセンサにノイズが入る問題は残ったままです。これを解決するために、デジタル画像処理のひとつとして「コンポジット法」という処理が確立されました。参考までに、PhotoShopを使ったコンポジット処理の手順をPDFにまとめます。

これは同じ画像を何枚も撮影し、それを加算平均するという方法。暗部ノイズはランダムに発生するため、複数画像で平均化すると目立たなくなるという理由から考案されました。最近のカメラに「HDR処理」という機能がありますが、これも複数のフレームを加算平均してコントラスト強調しながらもノイズを低減させる処理を行ったものです。
天体写真の愛好家は、PhotoShopでコンポジットを行わず「StellaImage」というソフトを使って加算平均の処理をしています。

あるいは惑星撮影の処理には「RegiStax」というフリーソフトも利用されています。この記事のタイトル画像は、RegiStaxを用いて強調処理をしたものです。

さて、月面撮影に話を戻します。シンチレーションの影響の少ない画像を何枚も撮影しなければ、目指す品質には届かないというのはお判りいただけたでしょうか?
そしてさらに頭を悩ますのが「ミラーショック」と呼ばれる現象です。

今でこそミラーレスカメラが主流になりましたが、以前のカメラは一眼レフと呼ばれた通りカメラの中にレフ板(鏡)があって、シャッターと共に開閉してセンサに感光させるという構造になっていました。望遠鏡を使った長焦点撮影では、このレフ板の振動で鏡筒が動き、ブレる不具合があったのです。三脚を強化して対策しても、それでも何枚かは失敗する。そこで撮影枚数を増やして、その中からブレてないものを選別するという面倒な工程が必要になりました。フィルムを使わないデジタルカメラの利便性があっての作業ではありましたが。

さて冒頭で取り上げた問題の「月の写真」は、さらに2つの要素が加わり再現を困難にしています。2011年3月19日、あの東日本大震災の後、伊勢湾で撮影したものです。

2011.03.19 SUPERMOON

被災しなかった関西圏にあっても、あの重苦しいモノトーンの空気に変わりはありません。街は自粛ムード一色、本来なら久しぶりのスーパームーンだと張り切るところでしたが、こんな状態では撮影に行く気にもならず。そんな私の背中を押したのは、関東で被災した友人からの電話でした。
「俺たちはとてもじゃないが撮影なんて場合じゃない、だから被災してないお前らが撮らないでどうする。」
重い腰を上げ近所の海岸へ赴くと、月がやけに明るく感じる。レリーズを握ってひたすらシャッターを切る。その間ずっと、月だけを眺めていた。

再現できない「ふたつの要素」とは、自粛のため街の明かりがすっかり消えていた事。そして撮影した人の想いが映し出された事。

あの夜この月を複雑な思いで見つめていた人は、私だけではなかった筈だ。この写真を再現できないことは、何より今の安寧を意味しているのです。

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