20191004

〈主体〉という概念が人間と神との間で共有されるようになる時代    学一般の基盤に数学を置こうと試みたのはデカルトが初めてである    結局すべては自己肯定に落ち着くことをデカルトは示している??地盤調査完了後に建て直されるものは 調査前のものと何ら変わらない 変わり得ない!! 異なる語りを持っていないからである!!    デカルトは懐疑の必要条件であるところの言葉について懐疑の眼を向けなかったのだろうか??向ける必要はないのだろうか??  懐疑の徹底の結果として残る残滓は自身の信仰する・寄りかかるところの・その上に立つところのところのロゴスや権力や神ではないか??    疑うためには・容易に信じないためには 非常に強い意志が必要である  こうしなさいと言ってくるものに対して抗うことのできる強い意志  この意志は 神の意志に類似している(神の意志と類比的である??)    誰かによって欺かれる私は目的語としての私である!!この私を主語の私へと飛躍させてよいのか??    私とは〈考えるもの〉である  ここにデカルトの先入見が混入している  考えるという〈はたらき〉から考えるものという〈もの〉への移行を可能にした先入見    懐疑の結果得られたデカルトのコギトに 懐疑するというはたらき以外が含まれてよいことの根拠は??    融即しなければ!!    延長にも精神にも共通しているresとは一体何であるのか??    カントへとコギトの問題は受け継がれていく デカルトのコギトは何ものかであると語られることのできない 敢えて言うならば空虚である  〈私〉は空虚なXである

イスラームでは イスラーム以外の宗教の存在を前提とした宗教という語が用いられている  中世ヨーロッパなどのキリスト教的世界観の強かった時代にあっては 他の宗教の存在を前提とする必要がないが故に(または要請もないが故に)religion宗教という概念は必要なかった  前近代の日本では宗教という語は 今でいう宗派という意味で用いられていた  またイスラームは聖典の中にイスラームという自身の宗教名が出てくる これは自らが新たな宗教であったことにイスラームが自覚的であったことを示す  キリスト教の原初にあっては恐らく自らが真新しい宗教であるという自覚はなかったであろう    あらゆるものが政治的にならざるを得ない!!    語り・言葉は常に 他者の信仰を侵害する!!干渉する!!    

或る問いを認識論的問いと存在論的問いとに分けることに どのような重要性があるのだろうか??    哲学史を欠いてはならない!! 言葉を・概念を受け継ぎ ズラし 同化し 排除しながらドロドロと動く 政治的なものであれ!!  各哲学者が同じタームのうちに余りに異なる意味を含ませていること に自覚的であれ!!    科学の猿真似はもうやめだ!!    水脈をよく覗き込め!!ズレを 継承を 信仰を看取せよ!! そしてズレを生じさせた他性の痕跡を看取せよ!!ここに遺伝=突然変異のモデルをどの程度重ね合わせることができるか??   目的=sens=方向付け!! 〈私〉は目的がないとバラバラになってしまう!!    どの学問も安易な救済に縋ろうとしているのだから 哲学くらい安易な救済に縋るまいと闘ってもよいのではないか!!    言葉の郷理論的側面と経験論的側面という二面性!! 経験されるものの中でも特異な位置を占める言葉のその特異性は何に由来するか??    ロゴスを共有している者同士の間では その共有故に 同じものを見ていると錯覚することができる!!    思想は革命的であれ!! というよりも寧ろ思考は必然的に極左的である!!    ソクラテスは弁明せねばならなかった!!神もまた弁明せねばならなかった!!

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