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SNSのコメント数や再生回数とかに感情が左右される件、

コメントされない、再生回数少ないものは、投稿がイマイチだと思ってもいいのだろうか。


3年くらい前、は、
私をとりまく界隈ではインスタがとても盛り上がっていて、コメントしたり、もらえたり、ライブ配信もかなり頻繁にあったので、その中で同じ趣味を持つたくさんの仲間と会話することができていた。

それは、実際会ってお話するのはまた違う楽しさで、お互いの生活のなかで、何かをしながらでも遠く離れていても、コミュニケーションがとれる、顔を知らなくても大丈夫、という不思議な感覚ながら、とても楽しいものだった。

さらに、そこから派生して、実際に会って遊べることも、素敵だなぁと。

新しい繋がり、世界が広がってゆく、素敵な世界だな。と。

だけど、ここ2年くらいで、その盛り上がりは一気になくなってきた。(私の感覚では)

みんな、投稿やストーリーはたぶん見てくれているんだろうな、とは思うけど…。
反応やコメントはかなり少ない。

反応なし=悲しい。に直結する。

とはいえ、感情がまったくこもっていないコメントも嫌だな。

衰退しつつある、SNS仲間とのコミュニケーション、だけど、
やっぱりわたしはこれからも大事にしたいと思っているし、今も少しでも、いいな、と思ったら、コメントをするようにしている。
いいね、ボタンを押すんじゃなくて、コメントをしたい。


自分の投稿やストーリーをどんな風に見て感じてくれたのか、SNSの世界ではみんな多少なりとも気にするとおもうんだけど、
それは伝えられないと届かないもので、それが伝えられなくなった時は、不安だとかいらない思考が湧いてきたりするもの。

そんなものに左右されずに、好きな投稿をしたらいい、と自分でも思う。
けど、そんなにうまく処理できない。
意識の中ではなかなか拭いきれない。

忘れられていく感覚。
認識されていない感覚。


仲良かった人たちの生活様式も変化して、時間もとれなくなった、という背景や、
本当の顔見知りやお友達に昇格して、SNS上ではなくLINEやりとりできる関係に変化している、ということも少なくともあるとは、おもう。

でも。

やっぱり寂しい、悲しい、と感じてしまう。

いつまでも私を知ってほしいし、知られたいし、私もあなたを知りたい。

何を感じたのか、受け取りたい。

イマイチだったとしても、アドバイスが欲しい。
(これはちょっと難しいかもしれないけど、)


今、そんな中でも言葉を届けてくれる方には、ありがとう。


そんな気持ちで、インスタの世界の中で過ごしています。

noteは、インスタとはまた違った世界だと感じていて、人の心の内、みたいなものを知れたり、
言葉の力、というものをより感じることができる場所だなと思っています。


昨日、上に書いた私の気持ちと同じように感じているあおちゃんが、素直に言葉を発信していて、素晴らしいな、とおもった。



彼女の魅力、自分というものをしっかり認識して確立している姿、発信し続ける姿、素敵だなぁと思いつつ、嫉妬に似たような感情を抱いている自分もいた。

私は、気持ちをここに一旦記すことにしたけど、そこがまだ私の弱いところだったり、彼女には及ばないところ。

一回り以上年下なんだけど、
彼女への憧れはやまない。



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