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【短編】薔薇が好きな老人

序章

薔薇は春と秋が見頃だが、秋に咲く薔薇は香りが薄い。

だから、春に咲く薔薇が、私は好きである。

しかし品種にも、育て方にも、特に詳しいわけではなかった。

高校生、それははるか彼方で、未熟だった時期である。

その高校生のとき、友人に誘われ園芸部に入部したきり、

私は植物に特に関心を抱かなくなった。

むしろろ青々とした樹木をうっとうしく感じる20代、30代を過ごした。

妻と出会い、子を育て、孫が産まれ、そして60代で皺だらけとなった妻が

笑いながら「お先に」と逝ってしまった。

70代の私も皺だらけとなった。老木のほうがマシである。

本文1


庭に何を植えるか、妻は私に一才の口出しをしなかった。

草花の世話をしたくなったのは、子らが自立してからである。

はじめは趣味がなく、園芸部だったことをふと思い出して始めた。

人と交流したほうが面白いと言われた。

だが、老いとは不思議である。

これが面白いのだ。

喋り相手にもならず、動かず、ひとりで育つこともできない彼らは、

私の、悪く言えば「死ぬまでの」付き添い役となった。

早朝の水やりをする。ジョウロの水で土を湿らせ、状態を丹念に調べる。

夕方は彼らを眺め、涼しくなる時間帯に雑草をむしる。

それが私の性分と合っているのか、それとも庭の日当たりがよかったのか、

付き添ってくれる植物達は、春になると一斉に花を咲かせた。

その庭の一角に、薔薇の園がある。

薔薇を美しいと言う人はいるが、私はそうは言いたくなかった。

私が育てた花に普遍的な美しさを見出しては、いくぶんもったいない。

どこか堂々としている。

強く、洗練された香りと、他の植物とは馴れ合わない濃い紅色。

私はその気高い薔薇が好きだった。

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テレビを見ていた。

すると庭の向こうでなにやら数人が騒いでいた。

日差しの照りつける午後だった。

「ここは私有地だ、君たち一体何をしているんだ」

ひとりは私の息子だった。唯一週末に顔をだしてくれる息子だったが、

こんなに怒鳴っていることは初めてだった。

「写真を撮ってただけです」

と、女性のキーキーした声が聞こえてくる。

私は中庭からサンダルを履いて外に出た。

「親父、勝手に敷地に入って写真撮ってたんだ」

と息子は女性三人組を睨みつけて言った。

女性たちは、おそらく大学生なのだろう、

皆が長財布より小さなバックを肩にかけ、露出の多い服を着ていた。

ひとりは金属の棒の先に携帯をくっつけて杖のように

地面に下ろしたまま、もじもじしていた。

「すみませーん」間伸びした声を出して、一人が謝る。

「一体何考えてるんだ」と、息子はまだ怒っていた。

「てか、いいじゃないですか、写真ぐらい」

と、もうひとりの女性がつぶやく。

「なぜ、薔薇を撮ろうとしたんですか」

不意に私は聞いてしまった。これもまた老いのなせる欠点である。

息子が代わりに現場を目撃し、闘牛のごとく怒っているためか、

私は癇癪を起こすことなく、

頭のなかにある疑問を投げかけてしまっていた。

息子が舌打ちをした。息子は怒りに便乗して欲しかったらしい。

女性達は、老人にへこへこすればことなきを得ると思ったのか、

「えーー」とか「うーん」とか不要な言葉を発して時間を稼いでいた。

「だって、手前にも花はあるじゃないですか」

嫌味にきこえたかもしれないが、事実なのだ。

香りは劣るものの、ツツジだって綺麗だ。存在感は薔薇よりある。

花壇にある数輪のチューリップだって、なかなかの見ものである。

「そこの、それ後ろの花だって綺麗ですよ」

と私は女性の後ろにある膝より下で咲きそろうツツジを指差した。

「映えないですよ」と黒い棒を持った学生が愛想良く答えた。

「そうですか」意味を聞くのはよそうと思った。

「写真はとっても構いませんが、

泥棒と勘違いして警察に電話してしまうせっかちな老人のためにも

次からは声をかけてくれると、お互い気持ちがいいですよ」

私は、言った。

女子学生は、真っ黒な目をぱちくりとさせ、アハと笑っていた。

「すみませーん」と間伸びした声を私はまた耳にした。

失礼とか、常識だろという言葉が息子のいる方から聞こえてきたが、

それを知っている人はそもそも個人宅に侵入しないと

心の底でこそっりと思った。

「お嬢さんがた、薔薇のどこがいいんですか」

私はまた聞いていた。しつこいのも老いの証である。

「お嬢さん」と皺だらけの人間に言われ、気分を良くしたらしい。

三人は意外にも真剣に考えてくれていた。

「いい加減にしろ」と息子は呆れ返り、玄関へと向かったのか

姿が見えなくなっていた。

「セクシーじゃん」と頬がリンゴみたいな学生が、ねっとりと喋った。

二人は、「なにそれー」「意味わかんなーい」と言う

反論なのか反応なのか区別し難い返答を見せてくれた。

「おじいさんは、なんで薔薇なんか育ててるんですかー?」

とひとりが突然質問をしてきたので、私は少しばかり戸惑った。

私は妻を思い出した。美人というほどでもなかったが、

誰にでも屈託なく笑い、またその笑顔の眩しさが私の胸を揺さぶっていた。

だが、私は美しいから薔薇を好きなわけではない。

そして妻を思い出すから好きだという理由は、少し変だとも思った。

「さあ、そういえば大した理由はないんだよ」

と私は力なく笑ってしまった。

また彼女らは「えーー」とか「ウソー」とか大袈裟な反応を示した。

すると、棒を持ったまま、先端についている携帯を眺めていた彼女が、

「なんか、うちら楽しめてるーって思えるからじゃない?」

と言った。

「どゆことーそれー」とひとりが身を乗り出した。

私も身を乗り出した。

「だって、映えるってことは、私らも映えの一部になれるじゃん」

彼女は棒を肩に担いで言った。

遠目だが、携帯に薔薇を背景にした3人の写真が見えた。

「ってことは、うちら人生いろどってるーって感じるじゃん」

私は黙って先を促した。

彼女は注目されて、謝罪していたときよりもぎこちなくなっていた。

「バラとかマジでそんなモチベになるでしょ。あとウケもいいし。

ウチらだって花に負けねえくらい人生謳歌してるんだって」

なるほど。

「なに悟ってんのー」「えぐー」という2人の野次に、彼女は舌を出して

エヘっと言い、奇妙な顔を披露した。

「ということで、次はもうしません。ごめんなさーい」といいながら

帰ろうとしたので、私は引き留めた。

「お嬢さんがた、お名前は」

私は言った後で恥ずかしくなった。

老人が若い女性に名前を聞くということは、妻がいれば絶対にしなかった。

やましい気持ちはないが、どこか隠したいことだと、

顔が赤くなってから考えた。

また、語尾の長い言葉を浴びるのかと一瞬怯んだが、

案外にも彼女たちは素直だった。

「新宅 夢子です」「野中 ひまりでーす」

そして「人生謳歌」と我々の前で演説をしてくれた彼女は

「安田 美華です」と名乗った。どこか照れていた。

「いい名前だよ。お嬢さんがた、その名に恥じないよう、次は気をつけて」

と私は手でもういいよと合図した。

老人というより侍みたいだよ、と後で息子に言われた。

女子学生らはヒールで庭に穴を開けながら去っていった。

終章

朝の4時に目が覚める。

起床というより起動に近い。

一日が砂時計のように、急速に吸い込まれ、

疲労と年齢だけが少しずつ積み重なる。

どの薬を飲んでも、どこに湿布を貼っても、治ることはない。

それでも病院に通い、小さな段差に警戒し、よく噛んで食べる。

死なないように、でも死ぬのに。

薔薇が好きな理由。

それは、その咲く強さが、凛々しさが、色素や匂いや危険な棘が、

隣にいてくれると

「ウチらだって、映えるんだから、負けねーし。いろどり豊かだし」

と、舌をぺろと出して言えるような存在だからである。

老人は、蛇口の下にジョウロを置き、歯のない笑いを漏らした。

妻は夜明けの空で一緒に笑っているだろう。


終わり



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