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「悲哀の月」 第32話

 コロナウィルスは収束の兆しが見えない状況が続いていた。感染者と死者数は一向に減らない。
 そこで政府もついに手を打った。
 緊急事態宣言を発令したのだ。
 と言っても、内容は他国とは違う。強制的に外出を禁止するものではない。不要不急の外出は控えるというものだ。飲食店や商店に関しては、営業自粛要請が言い渡された。それにより、町から人の姿は消えた。渋谷のスクランブル交差点でさえ、数えられるほどしか人は歩いていない。
 その中、雨宮は忙しい日々を送っていた。彼の働く会社では、一階の販売店こそ閉めているものの、製作工場の方は稼働している。世の中は自粛生活が続いているが、人は退屈を嫌う生き物だ。家にこもる中で楽しみを模索する。その新しい楽しみとして、ギターを選択する人が少なくなかった。さすがに高価な物を買う人はいなかったが、初心者用の安いギターは飛ぶように売れていた。職人は品切れを避けるため、多忙となっていた。
「良かったわね。うちの場合は仕事が切れなくて。一時はどうなるかと思ったけど。他の人なんて、仕事がないって嘆いているじゃない」
 休憩に入ると、汗を拭いながら佳代が言った。人一倍仕事に不安を持っていた彼女だけに、現状は安心材料になっているようだ。
「あぁ、それはそうだけどな。でも、俺は複雑なんだよな」
 だが、羽鳥は苦い顔をしている。
「どうして」
 佳代が聞く。
「近くにラーメン屋があるだろ。俺はよく、あの店に行くんだけどさ。今はこんなご時世だから店は閉まっているんだよ。それでこの前、店主に会ったんだけどな。このままじゃ店をたたまなきゃいけないかもしれないって言っていたんだよ。それも、あのラーメン屋だけじゃなくて飲み屋や定食屋も同じ事を言っているんだ」
「そうなの。国も個人事業者にお金を払うっていたけど、それじゃ駄目なのかしら」
「それだけじゃ足りないらしいよ。最大二百万とか言っているけど、仕入れ代や光熱費に家賃、従業員の給料を入れたら、一ヶ月も持たないって頭を抱えていたよ」
「そうなの。それは大変ね」
 佳代は表情を曇らせた。
「あぁ、今は出前を考えていると言っていたからさ。始まったら出来るだけ取ってやろうと思っているよ。何とか生き残ってもらいたいからな」
「そうか、なら、俺も頼むかな」
 と、そこで別の声が入り込んだ。目を向けると、五味がいた。彼としても緊急事態宣言が発令された当初は危機感を持っていたが、思わぬ展開に救われていた。
「このままじゃ飲食店は軒並み閉店になってしまうよな。何とか救ってやりたいけど」
「えぇ、出前の他にも店頭でも販売すると言ってましたけどね。それで何とか営業自粛期間を乗り切ろうと考えているようですが、その期間がいつまで続くかわからないですからね。不安は尽きないと思いますよ」
「そうだよな。俺達で出来ることは注文してあげることだけだからな。出来るだけ協力してあげるか」
 五味は言った。彼としても、昼食をラーメン屋に行くことは多かった。店主とも顔なじみだ。自分は幸いにも仕事は順調にいっているが、こういう時だからこそ、力になってあげようと考えていたのだ。
「そうですね。そうしましょう」
 日頃、ラーメンを食べない雨宮も同意した。困った時はお互い様だ。
 そしてこの日から彼らは昼になると、近くのラーメン屋で出前注文するようになった。


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