「悲哀の月」 第33話
里奈はこの日、仕事は休みだった。昼間はゆっくりと過ごし、夕方になると雨宮の部屋へとやって来た。彼は仕事のため、留守だ。合い鍵を使って中に入った。部屋はそれなりに散らかっていたため、掃除をし夕食を作った。
すると、やがてドアが開き雨宮が帰ってきた。
「ただいま」
LINEで来ていることを伝えていたため、里奈が部屋にいても彼が驚くことはなかった。笑顔を見せている。
「お帰り」
里奈も笑顔で迎えた。すぐに作った料理を食卓に並べていく。自慢のカレーライスだ。
「やっぱり美味しいな。里奈の作ってくれたカレーライスは。お店も出せるほどだよ」
一口食べた雨宮は満足したようだ。次々と口に運び、お代わりまでしてくれた。里奈からすれば、幸せを実感できる瞬間だった。
「で、どうしたの。今日は」
カレーライスを食べ口を拭うと、雨宮は聞いてきた。仕事は忙しい中で部屋に来たのだから、気になっていたようだ。
「うん、実はね。私、決めたの。もうコロナ病棟で働くのは辞めるわ」
そう思い、里奈は自分の導き出した結論を口にした。
「本当に」
それは夫からすれば嬉しかったが、彼女らしくない結論だったため、正直複雑だった。
「うん、本当。この前のことなんだけどね。健介も貴子のことは覚えているよね。前に紹介したから」
「あぁ、覚えているよ」
確かに紹介されたため、雨宮は頷いた。
「彼女もコロナ病棟で働いていたんだけどね。先日、辞めたの。やっぱり耐えられなくなって」
「そうなんだ」
雨宮の顔は神妙になった。紹介を受けた時の貴子は、目を輝かせて看護師になった経緯を話していた。今の仕事にやり甲斐があるとも言っていた。里奈に負けないほどの情熱を持っていると感じたほどだ。その彼女が辞めてしまったというのだから、コロナ病棟で働くことがいかに過酷かが窺える。
「うん、彼女もずっと、私と同じ疑問を持ちながら働いていたんだけどね。でも、ついに限界ラインを越えちゃったの。売店に買い物に行ったところで、店にいた老人にコロナ病棟の人間は来るなって怒鳴られたんだって」
雨宮は顔をしかめた。
「私達は頑張っているのにさ。それはあまりにも不条理じゃない。慰めてあげたけど、同時にこのまま続けていたら私もいつ爆発するかわからないなって思ったの。今だって、ギリギリの状態なんだから。だから、問題を起こす前に辞めようと思ったの」
「そうなんだ。それなら仕方ないな」
話を聞き雨宮は納得した。
「で、その後は元の病棟に戻れるの」
「それは無理ね。コロナ病棟とはいえ、職場を投げ出したってことになるからね。イメージは悪いでしょうし。病院としても、コロナを受け入れていることで来院者数も減少しているし。正直、人出に困っているのはコロナ病棟だけだからね。入院病棟も今は受け付けていないし。だから、難しいと思う。無職になっちゃうわね」
「そうか。これだけ頑張ったのに便宜は図ってもらえないんだ。でも、いいよ。里奈がいてくれれば。それだけでいいよ。お疲れ様」
雨宮は笑顔で労いの声を掛けると拍手を送った。
「ありがとう。明日、病院の方に伝えてくるわ」
彼の優しさに里奈は感謝した。
「あぁ、わかった」
雨宮は笑顔を見せている。彼からすれば、不安の種が消えたのだ。嬉しくないはずがなかった。
「それじゃあ、しばらくはゆっくり出来るかもしれないんだ。その間に住む部屋を探そうか。今回の件でやっぱり、一緒に住んだ方がいいって実感したから」
「うん、そうね」
もっともな意見に里奈は頷いた。確かに、今回は雨宮の優しさがなければ乗り切れなかった。
「なら、まずは新居探しね。他の時間は家事に精を出すわ。カレーライス以外も作れるようにしたいからね」
早くも里奈は新たな決意を口にしている。
「そうか。俺も楽しみにしているよ」
それは願ってもいないことのため、雨宮は笑顔を見せた。
「うん、楽しみにしていてね」
里奈は笑顔で約束した。そうして彼女は、医療の現場から一時的に退く決意を固めた。
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