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「悲哀の月」 第34話

 翌日。
 里奈は夜勤の予定だったが、日中に病院へ向かった。退職の旨を伝えるためだ。伝えるのであれば、早い方がいいと考えたのだ。
 だが、三年も働いた病院だ。退職を伝えるのはさすがに複雑な心境だった。雨宮は頑張ってと言ってくれたが、さすがに緊張と申し訳ない気持ちが岩肌に打ち付ける波のようにぶつかり合っていた。
 しかし、実際に病院に行き退職の旨を伝えるとあっさりと承諾された。医療従事者に対する心ない人たちからの風当たりの強さは誰もが周知の事実のため、無理強いは出来ないのだろう。里奈は職場の仲間に簡単な挨拶をすると、退職の手続きをし、帰ることとなった。
(この道ももう歩くことはないのね)
 複雑な気持ちを抱えつつも病院を出、駅へ向かう道を歩きながら里奈は思った。病院のそばこそオフィス街のため、ビルが建ち並んでいるが、駅に近付いていくと町並みは変わっていく。小さな商店や飲食店が増えていく。仕事帰りやお昼には、看護師仲間と何度も足を運んだものだ。毎日歩いてきた道だけに思い出もたくさんある。その道も、もう見なくなると思うとさすがに淋しかった。
(そうだ。それなら、あのお店に寄ってみようかしら。今日を逃したら、もう行けないかもしれないから)
 そこであることを思い付いた。駅から病院へ歩く道中には、美味しいと評判の中華料理店があった。普段は長蛇の列が出来ていて入いれないが、現在はコロナ禍で飲食店は軒並み閑古鳥が鳴いている。営業自粛要請が出ていることで店が閉まっているかもしれないが、客数を限定して開けている店もある。里奈は、その可能性に賭けてみることにした。
 すると、店は開いていた。換気の面から入り口の引き戸を全開にして、営業していた。
(良かった。やっていたわ)
 僅かな喜びを覚えながら中に入ってみると、すんなり座ることが出来た。店は、テーブル席が六個と、それほど大きくはない。カウンター席もあるが、コロナの影響で今は立て札が立ち、座れなくなっている。厨房では、中年の男が鍋を振っているが、マスクをしているため、さすがに暑そうだ。注文を取りに来た中年の女性もしっかりマスクをしている。
 里奈は、その女性に麻婆豆腐定食を注文した。絶妙な辛みが評判だ。
 携帯を見ながら待っていると、五分ほどで運ばれてきた。湯気が立ち上り、食欲をそそる。
(美味しそう)
 里奈はマスクを外し、コートのポケットにしまうと食べ始めた。麻婆豆腐をレンゲで掬い、口に運ぶ。
 と、熱さと共に辛みが広がってきた。辛い物が好きな里奈にとっては至福の瞬間だ。手を団扇代わりに仰ぎながらも、次々と口に運んでいく。
(やっぱり美味しいわね。食べられて良かったわ)
 十分ほどで平らげると、里奈は満足した。水を飲み、辛みを僅かながらに抑えると、立ち上がりトイレに行った。
 だが、彼女はこの時油断していた。簡単な口内ケアをしようと考えていたが、マスクはコートのポケットに入れたままだった。
 里奈はそこに気付くことなく、トイレに消えていった。
 そして、その後を追うように年配の女性がトイレに入っていった。この女性は里奈が食事中に来店したが、入店時から咳をしている。食事を取るため、マスクを外した状態でだ。当然、それはトイレに入ってからも変わらない。ドアが閉まる寸前、彼女が激しく咳き込む声が聞こえた。


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