「悲哀の月」 第31話
雨宮に宣言した通り、里奈はコロナ病棟での勤務を続けていた。
だが、現実は厳しい。患者は次々と運ばれてくる。軽症になった患者は退院し、空いたベッドにまた新たな患者が運ばれてくる。その繰り返しだ。
また、患者は部屋から出られないことで買い物も頼まれる。看護師は売店まで行き買ってくることで、正に休む時間もなかった。
当初は五十人近くいた看護師も今では半分以下しかいないため、それは余計だ。残った看護師も疲労が蓄積され、いつ辞めるかわからない状態だ。辞めた医師に関してはすぐに補充されるものの、看護師はそうはいかない。声を掛けても志願者は現われず、募集を掛けても申込者はいないことで、潜在看護師に復職の声を掛けているほどだ。それほどまで、コロナ病棟は逼迫した状態にあった。
この日も厳しい状況下での仕事が続いていた。
そして、ついに事件が起きた。
「どうしたの」
里奈は声を掛けた。相手は貴子だ。彼女は軽症者患者に頼まれ、売店に買い物に行っていた。だが、帰ってくると目を赤くしていたのだ。
「今、売店へ行ってきたんだけどね。そこにいた老人に、私がコロナ病棟の看護師だって指を差されて、来るなって追い払われたの。店にいたお客さんも急に避けるようになって。私のことをまるでゴミでも見るような目で見てたわ。慌てて店から出ていった人もいたし。その後に買い物をしたんだけどね。店員は私の置いたお金を受け皿から直接レジに入れたのよ」
貴子は顔を覆って泣き出した。
「そうなの。それは辛かったわね」
里奈は彼女の背中を優しくさすってあげた。そうしたところで、貴子の涙は増えていく。ついには嗚咽を漏らし始めた。さすがにこうなっては職場に居づらい。
「ちょっと外に出ようか」
里奈は彼女の体を支えながら病棟から出、庭のベンチに座った。芝生が一面に敷かれた庭では、子供が元気に走り回っている。空は曇っていたが、子供達には関係ないらしい。
「ありがとう」
その風景を見ていると、貴子が礼を言ってきた。買ってきた紅茶を飲んだことで、落ち着いたようだ。涙は止まっている。
「私、もう限界」
しかし、直後に聞きたくない本音が出た。
「仕事が辛いのは覚悟していたんだけどね。それだけならまだ、やっていけたんだけど。でも、他のことは耐えられないわ。コロナ病棟にいる限り、私は鼻つまみ者のように扱われることにもう耐えられない。こんなことが今後も続くと思ったら私の精神は崩壊してしまうわよ。そうなったところでどうせ、病院側は何もしてくれないでしょうし。それなら、早目に辞めてしまおうと思って」
貴子の目に再び涙が浮かび始めた。
「そっか。わかったわ。それならしょうがないわね」
話を聞くと里奈は理解を示した。
「よく頑張ったよ。貴子は。それはみんながわかっているからさ。辞めたところで誰も責めはしないわよ。自分の出した結論に従えばいいわよ」
「里奈はどうするの。まだここで働くの」
貴子は聞いた。
「私も正直、限界。この前も旦那の胸で泣いちゃったからね。貴子みたいな事を目の当たりにして。一体、自分は何のためにやっているのかって、自問自答ばっかりしているわ。おそらく、このまま続けていたらもう心が持たないと思う。だから、近い内に辞めると思うわ」
里奈も自分の気持ちを告白した。
「そうなのね。里奈も辛かったのね」
彼女の本心を聞き、貴子は少しだけ気持ちが楽になった。
「うん、ごめんね。貴子はきっと、私のせいで辞められなかったのよね。本当にごめんなさい」
里奈は謝った。
「いいのよ。そんなことは。私はいつでも里奈の仲間だから」
貴子は笑顔を見せた。
「ありがとう」
里奈も笑顔を見せる。
その後、二人は少しだけ今後のことについて話すと病棟に戻った。そしてその場で、貴子は退職の旨を伝え、その日の内にコロナ病棟から去って行った。
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