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「カエシテ」 第35話

   35

 加瀨から開放された時刻は、九時近かった。ホテルの部屋に入ると、重い溜息が漏れる。
(こんな事なら来るんじゃなかったわ。わざわざ新潟まで。疲れただけだものね。まぁ、食べ物は美味しかったけどね。あれじゃあ、チャラにならないわよ)
 心の中は後悔で埋まっていた。名目上、取材の勉強としていたが、それは真っ赤な嘘だった。純は別の目的を持って新潟行きを志願したのだ。だが、ここまでの疲労を覚えるとは思っていなかった。部屋に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
(ヤバい。お風呂に入らないと。動き回ったから汗も掻いたし)
 思わず、そのまま眠りに落ちそうになったが寸前のところで目を覚ました。若いだけあり、どんなに疲れていても入浴は怠ることは出来なかった。慌てて身を起こし、準備を整えていく。ただし、宿泊している部屋に浴室はない。入浴するのであれば、三階の大浴場まで行かなければいけない。
(どうして、男の人ってあんなに仕事の話が好きなのかしら。私は興味がないのに。放っておいたらいつまでも喋っているものね。信じられないわよ)
 準備を整え部屋を出たものの、頭の中は相変わらず不満で埋まっている。口からは溜息が漏れるばかりだ。廊下は黒ずんだ赤いカーペットが敷かれ、天井には蛍光灯が灯っている。隅には自販機が置かれているが、ビジネスマンらしき中年が浴衣姿でビールを買って飲んでいた。純は、その様子を横目にエレベーターホールへ行った。
(完全に失敗だったわ。今回の件がきっかけで今後も取材に回されるようになったらどうしよう。とてもじゃないけどやる気はないわよ。見ず知らずの人に話を聞いて回るなんて。何が楽しくてそんなことしなきゃいけないのよ)
 エレベーターはすぐにやって来たが、純は気が重くなっていくばかりだ。箱に乗り込み下降が始まったものの、相変わらず口からは溜息しか出て来ない。純は、働くことがあまり好きではないため、楽して稼ぎたいという甘い考えしか持っていなかった。『月刊ホラー』は打ってつけだった。読者から送られてきた手紙やメールをチェックし、たまにアプリを使って心霊写真を作っていればいいのだ。あとは、月に一回発表する都市伝説を適当に見つけ、後日行われる会議で発表すれば給料をもらえる。これほど楽な仕事はなかった。陣内が発する息が詰まりそうになるほどの重苦しい空気感は苦手だったが、なるべく拘わらないようにしていれば害が及ぶことはない。
(もしそうなったら辞めるしかないわよね。どうせ仕事なんて探せばいくらでもあるんだから。またすぐに見つかるわよね。ここはくだらないことを真面目な顔で話し合っているところが面白かったけど、しょうがないわよね。また探せばいいや)
 気楽な考えを持ったところで、エレベーターは三階に到着した。純は箱から降りると、廊下を歩いて行く。女湯は、突き当たりにある。紺地に白の文字が染め抜かれた暖簾は廊下からでもハッキリと見えた。
 純はしっかりした足取りで女湯に向かっていく。頬は桜色に染まっているが、決して酔いは回っていなかった。コロナ禍の家飲みで、ワインを一人で五本空けたこともある酒豪だ。新潟で飲んだ日本酒は強かったものの、コップ三杯程度だった。純にとっては水みたいなものだ。
 彼女は廊下を歩き切ると、女湯の暖簾をくぐった。スリッパを脱ぎ、曇りガラスの引き戸を引くと、右側のくぼんだところが脱衣所となっていた。壁際にはロッカーが並んでいる。脱衣所に人の姿はない。三和土にスリッパは一足もなかったため、入浴している人はいないようだ。
 純はそう判断し、端のロッカーを選ぶと服を脱ぎ始めた。
 が、上着に手を掛けた時だった。
「カエシテ」
 どこからか声がした。物悲しい女の声だ。
(なに。誰かいるの)
 着替えの手を止め、純は辺りを見回した。
 だが、脱衣所に人の姿はない。突き当たりにある浴場からも水を流す音は聞こえてこない。
(気のせいか)
 空耳と判断し、純は着替えを再開した。
「カエシテ」
 が、再び声が聞こえてきた。
「なに。どういうこと」
 困った時にそうするように、純は携帯を手にしようとしたが、ある異変に気付いた。液晶から白い指が出て来たのだ。指は、何かを探すように蠢いている。
「嘘でしょ。何なの。これは」
 純は後退った。
 と、彼女を追うようにロッカーが勢いよく開いた。
 中からは腕が飛び出てくる。腕の先では、何かを捕まえようとするようにモゾモゾと指が動いている。
「何なの。これは」
 純は慄然としたが、三十を超えるロッカーが次々と開いていく。中からは何本もの腕が伸びてくる。異様としか言いようのない光景だ。
 純は一瞬、酔っているのかと錯覚し、額に手を当てた。だが、額は熱いわけではない。頬をつねっても痛みは感じる。目の前で起こっていることは現実だ。
 そう確信したところで全てのロッカーが開いた。
 同時に、何本もの腕が勢いよく床へ飛び出てきた。腕は、指を器用に動かしながら床を進んでくる。
「いやぁ」
 純はけたたましい悲鳴を上げながら逃げ出した。
 だが、腕は許してくれない。
 床を激走すると、純に飛びついてくる。
 彼女は、たちまち身動きが取れなくなった。
「止めて。離してよ」
 それでも必死に振り払おうとするが、腕は次々とロッカーから飛び出し、純の体にしがみついてくる。
「どうなっているの。これは」
 恐怖のあまり目は涙で埋まっていく。しかし、その目に映る現状は悲惨なものだ。既に脱衣所は腕で埋まっていた。床板が見えないほどだ。無数の腕が指を動かし、鼠のようにひしめき合っている。床だけではなく、ロッカーやベンチの上にも乗り、壁や天井に蜘蛛のようにへばりついている。中には床に落下し、ひっくり返り、指をばたつかせてもがいている腕もある。
純は、その中央で立っていた。体は辛うじて目が見える程度で、あとは完全に腕で覆われている。
 だが、更なる恐怖が襲い掛かってくる。
「カエシテ」
 女の声だ。
 純は声のした天井へ目を上げた。
 すると、何かが落ちてきた。
 女の顔だ。全体的に青白く、髪の隙間からは純を呪い殺そうとするかのように睨みつけている。その顔が、純の目の前で人魂のように浮遊している。
「もう止めて」
 純は女の顔に向かって涙目で訴えかけた。
 だが、思いは届くことはない。
 床にひしめく腕が力を合わせ、浴場へと続く曇りガラスの引き戸を開けた。
「何をするつもり」
 思わず身構えたが直後、腕によって体は押された。
「いやっ、何なの」
 抵抗も虚しく、純はたちまち浴場へ押し込まれた。浴場はタイル張りの浴槽が左側と奥に一つずつある。右側は、洗い場となっている。
「誰か」
 浴場に押し込まれた純はすぐに人を探した。だが、浴場に人の姿はない。
「カエシテ」
 唯一聞こえる人声は女のものだ。顔は純の横を浮遊している。片時も離れず、刺すような視線をぶつけている。
「私をどうするつもりなの」
 純は問い掛けたが、すぐに答えは出た。腕によって浴槽へ突き落とされた。
(助けて)
 純は必死に顔を湯面に出そうとした。
 だが、頭を押さえつけられていることもあり、顔が湯面に上がることはない。
(助けて。せっかくここまで来たのに。意味がなかったってこと)
 純は必死に抵抗を見せたものの、もはや力は残っていなかった。
 浴槽に落とされて一分もすると意識は無くなった。
 底に沈んでいた彼女の体は、ゆっくりと湯面へと浮上した。


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