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「悲哀の月」 第20話

 同じ日。
「どうしたんだ。今日は。元気がないじゃないか。動画制作はそんなに心配なのか」
 仕事が休憩に入ったところで五味は声を掛けた。相手は雨宮だ。この日の彼は仕事こそこなしているものの、いつものような覇気がない。
「いえっ、決してそういうわけじゃないんですけどね。他でちょっと気になることがありましてね。そのことが頭から離れないんです」
 答えたものの、相変わらず浮かない顔をしている。
「何だ。その心配なことって。まさか喧嘩でもしたのか。カミさんと。マリッジブルーっていう言葉もあるからな」
 他に考えられないため、五味は聞いた。
「いやっ、喧嘩ならまだいいですよ。仲直りすればいいわけですから。俺の心配事はもっと深刻なものなんですよ」
「どういうことだ」
 どうやら複雑だと判断し、五味は彼の隣に腰を下ろした。
「えぇ、実はですね」
 出来ることであれば口外したくはなかったが、お世話になっている五味が相手では隠してはおけなかった。自分の胸にある不安を伝えた。
「本当なのか。それは」
 話を聞くと五味の口からは大きな声が上がる。周囲にいた人は一斉に目を向けたほどだ。
「えぇ、本当です。俺としては辞めてもらいたいんですけどね。実際、止めましたし。でも、あいつは一度決めたら人の意見に耳を貸さない人間なんで。病院はしっかりとした体制を取っているから大丈夫だって一点張りで」
「そうなのか。それは困ったな。披露宴のことを持ち出しても気持ちは変わらないのか」
 何とか打開策を考え五味は口にした。
「駄目でした。俺も当然、口にしたんですけどね。披露宴は挙げるって。挙げないわけがないでしょって笑って返すばかりで」
「そうか。それなら心配だな。また病院は何だって、彼女にそんな危険な病棟を担当させるんだかな。新婚だっていうのに」
 五味としても何とか励ましてやりたかったが、さすがに言葉は浮かんでこなかった。同情するばかりだ。
「あいつは責任感が人一倍強いですからね。どうせ誰も手を上げないだろうと志願したんだと思います。もう一人じゃなくて、心配する人がいるっていうのに。そこはわかっていないみたいです」
「こうなったらもう、信じてあげるしかないんじゃないの」
 二人が重い空気となったところで声が飛んできた。目を向けると、佳代が立っていた。
「自分の妻はコロナ病棟で働いているんだ、すごいだろって、自慢するくらいじゃないとだめよ。奥さんもきっと、そうしてほしいはずよ。夫なんだから、妻を信じてどっしりと構えないと。頼りないと思われちゃうわよ」
「俺としてもそうしたいんですけどね。でも、ニュースを見たらとてもじゃないけどそんな気持ちにはなれないんですよね」
 相変わらず雨宮は情けない顔をしている。
「だって、考えてみなよ。こんなことは言いたくはないけどさ。奥さんの職場は病院じゃない。万が一のことがあったとしても、すぐに処置してもらえるわけでしょ。だから大丈夫よ。最悪なことは起こらないから。奥さんだって、コロナの怖さは知っているはずでしょうから、無茶だってしないと思うし」
「いや、すると思いますよ。目の前に苦しんでいる人がいたら」
 雨宮がそう答えたところで工場にチャイムが鳴った。休憩時間は終了だ。従業員は持ち場へと戻っていく。
 雨宮も腰を上げ動き出した。仲間の声はありがたかったものの、気持ちが晴れることはなかった。結局この日は、一日中不安な気持ちを抱えたまま、仕事をこなしていった。


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