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「悲哀の月」 第50話

「大丈夫ですか。わかりますか」
 軽症者病棟のベッドへ移し替えたところで、来生は呼び掛けた。
「はい」
 里奈は苦しみながら返事した。咳は相変わらず出るものの、声がしたため、目をうっすらと開けた。
 すると、そこには知っている顔があった。
「どうして来生先生がいるんですか」
 最初は幻影かと思ったが、いつまで経っても消えないため、里奈は聞いてみた。
「どうしてって、里奈さんはうちの病棟に運ばれてきたんだよ。だから、俺がいるわけだよ。俺だけじゃなくて、スタッフもいるけどね」
 そう聞き、里奈は周囲に目を向けた。確かに部屋には見覚えがあり、ベッドを囲むように知った顔が並んでいる。
「えっ、そうだったんですか」
 里奈は恥ずかしそうに顔を背けたが、すぐに咳が出る。
「とりあえず、レントゲンを撮りましょうか。咳が出続けているので。現在の肺の状況を見させて下さい。苦しいと思いますけどね。少し我慢して下さいね。すぐ終わりますので」
 来生は話を進めると、器具を設置していく。その間も里奈は咳き込んでいる。仰向きの体制でいることさえも辛いようだ。体は横を向いてしまう。これでは、正面から肺を撮影することは出来ない。
「すいません。少しだけ我慢して下さい。お願いします」
 来生は必死に呼び掛ける。その成果があったのか、何とかレントゲン撮影が終わった。
「ありがとうございます。もう終わりましたからね」
 来生は声を掛けながらも器具を片付ける。自身も一旦、部屋に戻った。そこで撮影したばかりのレントゲンを確認した。
「やはり肺炎を起こしているな」
 レントゲンを見ると来生は険しい表情となった。里奈の肺はすでに半分近くが炎症を起こしていた。
「今、レントゲンを見て来たんですけどね」
 部屋に戻ると来生は説明していくことにした。彼女はすでに、腕に点滴の管が刺さっていた。点滴からは、解熱や咳を抑える薬が流れている。また指には、パルスオキシメーターが装着されている。洗濯ばさみのような形をした医療器具だ。この機械で、血液中の酸素飽和度を測っている。
「現在の状況を見ると、やはり肺炎を起こしていました。咳をしただけでも、相当つらいと思います。ウィルスが肺にまで侵入してますからね。このウィルスをやっつけるためにアビガンを投与したいと考えているんですけど、どうですか。副作用が出る危険もありますが」
「お願いします。アビガンを」
 咳をしながら里奈は即答した。自分も何度か患者に出した薬だ。まさか自分も飲むことになるとは思っていなかったが、こうなっては仕方がない。
「わかりました。では、アビガンを投与することにします」
 確認が取れたことで来生はすぐに看護師に指示を出した。
「まずは五錠ぐらいにしておこうか。それで一旦様子を見よう。改善が見られなかった場合は量を増やすようにすればいいから」
「はい、わかりました」
 看護師は頷くと、メモを取り部屋を出て行った。
「それじゃあ、頑張ろうね。里奈さんはまだ若いから大丈夫だよ。体力だってあるだろうから。コロナに勝つの精神を忘れないでね」
 来生は拳を握ってみせた。
「はい」
 里奈は笑顔を見せた。ただし、来生と同じように拳を握ろうとしたが、出来なかった。一応、試みたが、重い倦怠感に負けてしまった。
「うん、頑張ろうね。大丈夫だから」
 来生はそこに気付くことなく、励ましの声を掛けると部屋を後にした。その後で看護師がアビガンを持って戻ってきた。
(何とか効いてくれるといいわね。アビガンが)
 手の上に乗った五錠の薬に希望を託し、里奈は飲み込んだ。


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