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いまさら半沢直樹


自分は、半沢ロスではありません。

実は今回の『半沢直樹』は、最初はあまり関心がなくて、家族らが視ているのをパソコンをやりながら、横目で見てるような感じでした。

決してキライではありませんが正直、仮想通貨やキャッシュレス化に向かう今の時代に、油ぎったバンカー達による人事や権力の応酬に、多少違和感を感じてはいました。

ただ、この時期に敢えて平成的な金融界の姿を描いたのは、何らかのメッセージが込められているんだろう…、と思われました。

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それは、昭和から平成にかけての不動産バブル、金融ビッグバン、不良債権、リーマンショックなどなど、金融と投資、投機が絡み合って、お財布の現金から、株や先物からデリバティブ、オプション、FXまで、お金の価値がテコの原理で捉えきれなく膨張、収縮を繰り返してきた不安定な時代。

日銀のマネタリーベースやマネーサプライなど、実態経済に密着した金融指標とは別に、為替や株価、ブレミアムやボラティリティーなど、投資や投機の数値が、まるで電子回路のコイルとコンデンサーが呼応しあって描くオシロスコープの波形のように変動する。

お金というものは、日々汗水垂らして稼ぐものだ、と教えられた昭和時代。

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特殊技術を持つ町工場を経営する父親が、銀行の貸し剥がしに逢い、自殺に追い込まれ、実業家の怨念を秘めた半沢直樹が、虚業である証券業界に出向になったのは運命か、と思われたが、頭取の深謀遠慮による計らいだったとは…

昭和、平成の金融、証券業界、そして政治、行政のドロドロした残滓を敢えて描いた『半沢直樹』。

ヒトがカネを動かしていたこれまでの時代から、いよいよ目に見えないキャッシュレス化の世界に入っていく今、「日本の金融はこんな風に動いていたんだよ。」というレガシーを『半沢直樹』は残したのか…?

最後に、半沢直樹クンがマトリックスのネオ的存在に見えたのは、自分だけかな?
そうすると、大和田はモーフィアスか…