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麦酒

1月。15時、1℃。風邪を引いた。
21℃のリビングで、何を考えるでもなく、唇に爪を突き立てた。

17時。インターホンが鳴った。
汚い赤がこびり付いた指で受話器を取った。
怯えたような笑みを無理やりくっつけた、痩せっぽちの男が映っていた。
「アサヒ新聞です。お母様はいますか。」
インターホンの高さは男の胸よりも低いのに、モニターに映る男は私を見上げていた。
「すみません。20時頃帰ると思います。寒い中ご足労頂いたのにすみません。」
男は最後まで笑みを浮かべたまま、また来ますと言った。
ここ数日で私は3回、この男と同じ会話をした。

私が小学生の頃、ヘルメットの男が時折家にビールを持ってきた。私はその男をビール屋さんか宅配便の人だと思っていたが、しばらくして新聞屋であることを知った。
その日、玄関先で腕組みした母と項垂れた男が話しているのを聞いた。
「申し訳ありません、もうビールもギフトカタログもお届けできなくなるみたいで」
「残念ねぇ、じゃあ契約やめようかしら?」
「……上と相談させてください」
数日後、母はご機嫌でビールの缶を開けていた。ソファにはいつも通り新聞が畳まれていた。

それから10年、我が家には必ずエビスビールが1ケース常備されている。
新聞屋の男は、顔ぶれが変わりこそすれ、言う事は変わらなかった。夕方やって来て、母がいるかを尋ね、帰っていく。
時には私を母と勘違いして涙声で懇願してくることさえあった。
「どうにかビール1ケース持ってきますんで、ぜひ再契約を……」

どうせ来週にはまた我が家に金色の缶が届くのだろう。
母の左手にこの金色を見る度、男たちの泣きそうな声と怯えた笑顔を思い出す。

新聞購読料¥4,000/月
エビスビール¥5,000/ケース

吝嗇な母は、スーパードライしか買わない。

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