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「りんご」はなぜ赤いのか

「色」は面白い。

「色」は、その「物体」と「物体を照らす光」によって決まる。

もちろん生理学的言えば、それを検知する感覚器官(網膜)によって、最終的にどういう色に見えるか決まるので実際のメカニズムはもう少し複雑だが、ざっくり言うとそんな感じだ。

モノの色は、どの波長(色)の光を反射するかで決まる。

例えば「りんご」は、自然光や蛍光灯など、いろんな波長(色)を含んだ光に照らされる中で、赤い光だけを反射し、それ以外の色を吸収してしまうから赤く見えるのだ。

黒色のモノが黒いのは、あらゆる波長の光を全て吸収してしまい、何も反射して返ってこないからだ。

ここでのポイントは、りんごそのものが赤いのではなくて、赤色の光だけを反射するからこそ、りんごは赤いということなのだ。

逆にいうと、照らした光の中に、赤色の波長の光が含まれていなかったら、りんごは赤くはないのだ。

そう思うと少しゾワっとする。

周りから照らしてくれる光があって初めて色は存在する、光がなければ色は存在しないのだ。

なんだか、「自己」と「環境」の関係性も同じようなものではないかと思えてきた。

他者などの外的な「環境」という光に照らされて初めて、「自己」という色が存在できるのではないか。

だから、いい人、悪い人、みたいなのも絶対的なものではなく、周りからどんな光で照らされているかで決まるのだと思う。

その人の特性によって、どの気質が強いか(どの波長を反射しやすいか)はあると思うが、善意しかない環境だったら、悪意という色は発色しにくいだろうし、逆に悪意しかない環境で、善意の色を保つことは不可能だと思う。

だからやっぱり、自分自身が豊かな色でいるためには、そんな光で照らしてくれる環境に身を置くのがよいのだろう。例え、少しばかり悪意とか貧しい光が混じっていたとしても、好きな波長が入っていたら、僕らはそれだけを反射すればいいのだ。

稀に例外として、今述べた「反射光」で色を得るのではなくて、内から湧き上がる色を自ら発光するLEDみたいな人もいるのもまた面白い。


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