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赦しは癒し、自分の中にいる色んな自分を受け入れると世界を受け入れられる。

受験生の甥っ子のために荏柄天神に行くために鎌倉へ。

私は鎌倉市民ですが、我が家は市の端っこで、駅周辺に行く際は「鎌倉へ行く」と言う。どうでもいいけれど。

ちなみにどうでもいいついでに。
鎌倉のある老舗企業の女社長から「相談があるから来て」と「鎌倉へ」呼び出されたあげく、私の住まいを尋ねられ答えたら「そこは鎌倉じゃないわ」と鼻で笑われたことをその会社の自社ビルの前を通った際に思い出しました。まいっか。

小町通りは、自粛期間にもかかわらずかなりの人混み、
そしてそこに修学旅行らしい学生の群れを見かけた。

我が家の高2と小6の息子、二人とも修学旅行が中止になったので「鎌倉市の子は修学旅行がなくなったのに、鎌倉には修学旅行生がくるんだ・・」とちょっと憤然とした気持ちが胸の中に起こりました。

それと同時に、そういうちっちゃい気持ちにがっかりする気持ちも湧いてきた。

目の前の子どもたちが修学旅行を辞めたとしても、息子たちが喜ぶわけではないよ・・・、ちっちぇーな自分と・・・。

でも、そういう自分がいるんだよね、と自分を眺めていく。

かつて、「私がこれだけ我慢しているんだから、あなたも我慢して当然」と相手に勝手に期待することで人間関係を複雑にしていた。

特に夫とのパートナーシップは、愛憎うずまき大変なもので・・。

私が子供のために我慢しているんだから、あなたも当然我慢しなさいよ・・!という期待を勝手に押し付け、裏切られると逆上する。
その繰り返しにへとへとになった時期があった。子供が小さい頃、多かれ少なかれある気がするけれど・・。

旅行だったり、飲み会だったり、日常のささいなことがいちいち喧嘩の種となった。

特に、夫が泊まりでゴルフに行くことが猛烈に許せなかった。なんでー?って今は思うけども。

だって、実は夫が不在中って、ご飯も何もかも自分のペース。
夫が嫌いで私たちが好きなものを食べたり、女子供時間はたまに必要な楽しい時間。

にもかかわらず、相手からそれを言い出されるのが赦せないという・・人は本当に勝手な生き物。人というか私が、かもしれないけれど。

目の前に起きるできごとに対し、本意じゃないにもかかわらずその時の感情にふりまわされて相手を支配しようとして、結果として自分や周囲を苦しめていく、勝手というかなんとも愚かな生き物。
まあ愚かじゃない人もいっぱいいるだろうけれど、少なくとも自分は愚かなバカ女で。

ある時期に、そうしていることのバカバカしさに気づいた。
相手に無理やり我慢させても、自分の喜びが増えるわけではないし、そうやって相手を支配しようとすると結果として自分が不自由になると気づき、それ以来、夫のお出かけもどうぞご自由に、と思いむしろ歓迎すらできるようになり・・(笑)

以来、夫に限らずさまざまな人間関係がとても楽になった。

そんな考察も、サポートさせてもらっている【TEAM家族】の応援に役に立ってる気もするしな・・・。

・・・といったことが、修学旅行生を見た後に、芋づる式に頭の中に浮かんできた。鶴ヶ丘八幡宮の敷地内の砂利道を歩きながら・・。

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他人様の子どもの修学旅行を辞めさせても、わが子の修学旅行が復活するわけではないと、最初に頭で言い聞かせていた理屈が自然にはらにおちた。

そうしているうちに、

その修学旅行が無事決行されたことでその背後にあるもの・・・子供たちが嬉しそうなだけでなく、その旅行を支えている旅行会社や旅館や、そこで働く人の生活や家族のことなどなどが、ほんの少しかもしれないけれど不安がへったり何とかなったかもしれない・・・ほんとよかったな、みたいな気持ちになった。

ああ、よかったな、と。それはその方々たちに対してと同時に、自分に対しても。

人を赦すことは何より自分を楽にする。

そして、楽になってはじめて感謝できるようになる。

そこを知ったからといって、聖人君子になれるわけでもないので、自分の中で二度と、汚い感情が湧かないかといったらおそらくそんなことはない。

何かあればすぐに他人のことが羨ましくなる・・いやそれを通り越して妬ましく感じて劣等感におしつぶされそうになったり、そうかと思えば、やたら優越感・・、いわゆるマウントしたくなるような尊大な気持ちになったり・・・。

よく言えば感受性が豊か、悪く言えば情緒不安定で、しかも気性が荒いので、自分の取扱いには結構工夫が必要なタイプ。

自分の中には、本当にいろんな自分がいる。

あさましく汚くてずるい自分が浮上してくる時は、やっぱり打ちのめされた気分にもなるし、取り繕いたくもなる。

でも、そういう自分をなかったことにしようとすることが、まさに自分を最も苦しくさせるということも経験上知ったので・・・。

なかったことにするのではなくて、そういう自分を認めて、受け入れていくと、自分自身が楽になるしまた、他人の中にあるそういう感情にも少しだけ寛容になれる。

私は抑えてるんだから、あなたも抑えて我慢しなさいよ、という支配欲から自分が解放されていく。

子供の頃から正義感が強く、それ自体が悪いと思っていないけれど、それがゆえに、意味不明に消耗してきた。

差別やえこひいきといった、私が理不尽と感じる行為をする人を見るにつけ、自分と関係あるなしにかかわらず、猛烈な怒りと責め裁きたい気持ちでいっぱいになった。

実際に自分は全く関係なく事情もよくわかっていないくせに、しゃしゃり出て意味不明に相手を責め裁いた場面も多分あったと思う。

しかもやっかいなのはそんな自分は正しくて偉いとすら多分思っていたから、ほんと救いようがない。

自分とは全く関係ないところで起きたできごとに対して、勝手に怒ったり泣いたりして自分が疲弊し、同じように怒りを感じない人にさらに怒りを感じたり・・・、ただの余計なお世話で、それくらい自分のことを持て余していたんだと今はよくわかる。

でも今は、

自分の目の前にあることも無関係な場所にあることも、自分の中に湧いてくる感情も、ただそれが起きただけだ、と思えるようになった。

なぜそれができるようになったかは、やっぱり私が自分のパーソナルクレドを取り戻したことが大きいんだけれど、
具体的な行動レベルとしては、持て余し気味だった自分の感情を淡々と眺めるようにしたこと。

湧いた感情はただ眺めていると、それはやがて消えていく。目の前で起きることの意味や価値を大きくせずにすむ。

自分の中に、本当にたくさんいるいろんな自分たちを、ただただじっと観察する。

憎悪や嫉妬、恨みや妬みやそねみ、どろどろした醜い気持ち、あさましさ。ずるさ損得勘定、身勝手さ・・。

ただただ眺めていると、それらはすべて、必要だからこそ存在しているはずのものだと気づく。

他人のそれを許すためだったり、うまくバランスをとるためだったり・・・。気づきを起こすためだったり・・・。

きっと、そういう自分全部を受け入れられるようになったら、世界のすべてを受け入れつながることができるんだろうな。

赦しは癒し

残りの人生でどれだけの自分を受け入れられるかわからないけれど、それを楽しみに思えば、醜い自分の出現すらも楽しみでウエルカムに思えたりして・・。

そんなことが頭の中から湧きながら、お参りを済ませ、お気に入りの妙本寺などなどを少し散策し。
遅いお昼にしようとお蕎麦屋さんに入ったら、うっかり魔がさして(笑)一人でカウンターで日本酒を一合呑んでしまった。

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呑みながら、頭の中に湧いたたことを吐き出すべく少しメモしようとしたけれど、ほろ酔いにつきあきらめて駅に向かう途中、なんと「そこは鎌倉じゃないわ」とのたもうた女社長さまが自社ビルの前を通り過ぎるのを見かけた。

このお方と同じように、人を差別したり馬鹿にしちゃう自分も、私の中に確実にいるよな。と思ったら笑ってしまった。
お酒のせいか、赦しのせいか・・・、まあどっちもかな。

【チーム自分】についてはよかったらこのへんもどうぞ。






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