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「受け入れること」と「諦めること」は全く違う


この間、ストア派哲学に関する本の中で面白い例えをみつけた。


「人生が動く荷台だとすると、人間はその荷台につながれた犬である。」


世の中のほとんどのことはコントロールすることができない。生まれた家も、国籍も、時代の流れも、今日のお天気も、運も、他人の行動や言葉も、世界経済も伝染病の流行も、いつ自分や大切な人が死ぬかどうかも、変えたり選択することが我々にはできない。

どんなに抗おうと、怒ろうと、否定し、他人のせいにしようと、勝手に人生や世の中は移り変わっていく。荷台は勝手に道を進んでいく。方向も速度も進んでいること自体も、我々にはどうすることもできない。


でも、その荷台につながれている縄の長さの分だけ、我々には自由がある。例えば自分の行動や、態度や、意志は、自分で選べるもの、自分に「しか」選べないものである。

他人にされたことは変えられないが、それに対してどう反応するか、どれだけ固執するか、その経験をどう活かすか、ということは自分でコントロールすることができる。すべてを失ったって、監獄に閉じ込められたって、自分の「在り方」だけは誰にも奪われることはない。


自分が楽しもうが苦しもうが勝手に進んでいく人生なら、いっそそれを受け入れて、自分に与えられたほんの少しの自由のなかで楽しんだり、自分が正しいと思う選択をすればいい。

ここでいう「受け入れ」は、「諦め」とは全く違う。諦めることは、コントロールできること(例えば自分の姿勢)に対して、それを変える選択を放棄することだ。


受け入れることは、コントロールが不可能なことを見極め、それに執着するのをやめることである。逆に言えば、コントロールが可能なことに全力で取り組むための術である。


荷台が幸せな場所に連れて行ってくれるから幸せになるのではない。

荷台がどこへ行こうと、抵抗せず、浮かれもせず、自分に与えられた小さな自由を謳歌できること。それこそが幸せなのだと思う。


2000年前の偉人たちの知恵に感謝。


2020年12月3日 東京都祖師ヶ谷大蔵
もえん


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