就活と恋愛と自分自身の確立⑤~再スタート~

私はこの素直さを、消してしまいそうになっていた。自分を良く見せようとして空振り。この繰り返しだったことに気付いた。ありのままの自分を見せることで諦めもつくし、努力の成果だと認めることも出来る。私は小さいときから真面目に生きてきた。時間も期限もきっちり守り、決められた規則に正しく従うばかりだった。でも、それも自分自身の良いこと。それを無理に変えようとして、かえって自分の精神を傷つけるのならば、やめるべきだ。

4月に入り、何か変われた気がした。
これにしっかり気付けた事で、自分にもっと自信を持ち、前向きに進んでいこうという気持ちになれた。そのおかげか、4月に入ってから色々な人に温かい雰囲気で出迎えられ、面接でも好印象を残すことが出来てきた。もちろん、踏んできた場数もあるだろう。しかし、この気持ちの切り替えがあったことによって自分の精神を保ち始めた。

同時に、自然と彼のことを気に掛けなくなった。興味が無くなったわけではない。自分に自信を持ち始めたことで「この私を受け入れてくれた。そんな私を裏切るはずがない」と思えるようになった。
それまでは本当に愛されているか不安で仕方なかった。もう興味なくなったのか、と思うこともあった。それはただ私が「察する」事をしなかっただけだ。

「察して」

私はこの言葉が大の苦手だ。人の気持ちなんか考えられないし、思ってたことと違う解釈をすれば、また揉め事が起こる。それは避けたかった。それだったらもう直接言ってほしい、そんな考え方だ。
しかし彼は違う。何事も我慢して自分の意見や気持ちを言えない事に対してすぐに気付く。そして対応する。無意識に、それを私は「当たり前」だと感じていたのかもしれない。
彼にとっては当然の事なのかもしれない。でも、実際私にとっては非常に困難な事だ。基本的に揉め事や喧嘩が苦手で、そうならないように私自身が折れ、丸く収める役割に徹することが多かった。

「議論」と「喧嘩」
これはどう違うのか?
もちろん私は一緒のものだと思っていた。お互いの意見をぶつけ合う、つまり言い合いだと感じた。しかし今は違う。明らかに意味が異なることに気付いた。
「議論」はお互いを尊重し合いながら「相手」と「自分」のために話し合いをすること。
「喧嘩」は相手の事を考えずに意見を押し付け合うことで「自分」のためだけに話すこと。主に感情面で一時的に発生するものだ。

この違いに気付けるかが、人付き合いにおいて大切なことだと私は思う。ずっとずっと人の意見に共感したって前に進まない。自分の意見や気持ちも上乗せすることで共に「結論」を出す。これが出来る人とは良好な関係が築けるのではないか。
しかし、これを行動に移すのは中々簡単なものではない。彼はよく私に気持ちや意見を伝えてくれる。とても嬉しくて学びはあるんだけど………体は正直で、どうしても泣いてしまう。悲しさなんて1ミリもないはずなのに。

一番の理由は「自分の思いを伝えられない」
喉につっかえる感じがして、それが涙として現れてしまう。どこかにまだ恐怖心は残っているのだろう。
「彼に嫌われたらどうしよう」
思いたくなくても思ってしまう。この心情が無くなった瞬間こそ、本当の「信頼関係」を築いたことになるのではないか。でもやはり、経験がないことには中々簡単には変えられない。面接と一緒で「場数を踏むこと」が非常に重要になってくる。