Known or Unknown について

こんにちは、Nollです。
タイトルの意味は「知っているか知らないか」ということです。
以前、NHKで渋沢栄一のドキュメンタリーを扱った「蒼天を衝け」の視聴率が低かったと話題にあったのを思い出しました。一回だけ見たことがありましたが、なんとなく納得しました。難しいですが「論語と算盤」を読んだ事があります。最後にはどういう人であったかみたいな解説がついていますが、内容とも解説ともどうも私には嚙み合いませんでした。

実はこれに限らず、少し前に購入した朗読CDも似たような感覚に陥りました。さほど長い話ではないのですが、前置きで「編集してダイジェスト版でお送りしております」と書かれておりました。聴いてみたらカットされている部分が多すぎているのと、脚色が強すぎて原型がほぼ細い糸くらいにしか見えなくてあんぐりしてしまいました。作品を複数入れるために時間の関係あったかと思います。元の作品を知っていたら、疑問が泉のように次から次へと湧いてきます。けれども、作品を知らない人からするとそれが原本のように感じられるようです。この人がこう言っているんだからこうなんだと信じ込むだいぶ危ういです。
また、作る側の人の中でも作品を知っているか否かでその作品の質が変わると思います。朗読した人たちがその本についてのインタビューみたいなのを聞くことができました。せめて一人は知っていてくれたらと淡い期待がかすかにありましたが多分原作を知らないだろうなと予想し、聞いてみてやっぱりそうかという感じでした。予想していた分、自分へのダメージも少なくて済みました。こういう人もいるんだという新しい発見もあったとさえ思います。

自分がまず、作品や人物や時代、その対象のことを知っているかどうかを先に確認するのがいかに大事かを確認させられました。
知らないのは、その時点で知れば良い。ただ、知らない=知らなくても良い、気に入った点だけ知る(これを偏信というそうです)というわけではないと頭の片隅に置いておいたほうがいいなと思いました。


余談ですが、シェイクスピアが書いた「Romeo and Juliet」が書かれたとされる推定1595年前後とされています。今から約430年前に世に出された作品がずっと脚本として扱われて浸透しているのエライことだと思います。
映画のWestside storyも凄いのですが、見るたびに原典(もちろん翻訳された日本語のものでもいいので)を読んでもらえたらなーと静かに根強く思います。映画もありますし、字幕版はセリフが当時の古英語が多いので、その時代の喋り方が聞けます。

歴史のドキュメントや話を読んでいて思うのですが、良いと認識されたものは永く続くのに対して、そうでないとされたものは繫栄している期間が短いように感じます。
それぞれの価値観や意見があるから、そうも言えないのではという声もあるかもしれませんが、私が思うに「多種多様」または「好き好き」には罠があるように思います。それをどんな人が言っているのか、どうして言っているのか、言うことのメリットは何か、とか、それも頭の隅に留めておくだけでも大きなダメージは回避ができるように思います。

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