8 大学に入るまでの話③

 自称進学校あるある言いたい。田舎の自称進学校あるある言いたい。受験は団体戦。塾には行かなくていい。学校の授業と課題をしっかりやっていればいい。内職をするやつは受からない。学校の勉強を疎かにするやつはどこも受からない。校内で行われる模試はベネッセの進研模試。いいずな書店、桐原書店。初めから私立大学に絞って3教科しか勉強しない人間は私立大学にも受からない。みんなで行こう地元国公立大学。
 中学から高校への進学という一般的な人生最初の難関をあまり苦労せずに突破してしまったことは過去に述べた通りで、その経験は僕に努力というものを放棄させた。微睡のような高校生活はニコニコ動画を見ているうちに終わってしまい、高校生活最後の文化祭が終わると受験シーズンが到来した。将来に対する明確な夢も希望もなくなんとなく文系を志望していた僕は、なんとなく地元の国立大学を目指してなんとなく学校の指定する教材で5教科7科目を勉強し、大学入試センター試験を迎えた。
 大学入試全体の顛末は前回述べた通りであるが、大学入試センター試験の結果はもう惨憺たるものであった。詳しい点数はもはや覚えていないが、数学が全くできなかったことは今でも覚えている。数ⅡBは10点にも満たなかった。他の科目の点数も振るわなかった。なんとなく志望していた地元国立大学の受験はもはや記念受験へと変わり、私立大学に望みをかけるも全滅に終わる。
 そして、僕はズルズルと浪人生活へ突入した。

 初めは宅浪を予定していたものの、私立高校を中退して通信制高校に編入した兄のようにひきこもりになってしまうことを懸念してか、家族から強く塾に通うことを要望され、大手予備校の町田校に入塾した。腐っても自称進学校に在籍していたおかげか、入塾料は免除され塾費は半額で済んだ。
 予備校の職員には初め東大進学コースを勧められたものの、ひよってしまった僕は早慶大進学コースを選んだ。もはや国公立大学すら諦めて私立一本に絞る方向で行くことにしたのであった。今思えばこのとき東大進学コースを選んでいればまた違った未来があったのかもしれない。もはや今となってはそんなこといくら夢想しても意味ないけれど、僕は途中から予備校に通うことをやめてしまった。早慶大進学コースをこの時選んだのは僕にとって失敗と感じられてしまったのだ。
 予備校も一つのビジネスである以上、当然のことではあるけれど東大進学コースの生徒が10人程度だったのに対して、早慶大進学コースの生徒は100人程度おり、どんな生徒でもとにかくぶち込んで収益を上げることが目的に設置されたコースだった。早慶大進学コースは2つのクラスに分かれており、クラスの人数は40人を超えていた。授業が終わると多くの生徒が講師に質問に行くため、疑問点を解決する機会を得づらく、自習スペースは全然空いていないうえにせせこましかった。新学年が始まって1か月もするとカップルが出来始め、特定の仲のよい集団による自習室まで聞こえてくる休憩スペースでの団らんや新卒と思われるチューターとの和気藹々とした姿が観察されるなど、それはまるで高校四年生かのような様相を呈していた。
 お前ら大学受験のために来てるんじゃないのかよ。あのとき日和らないで東大進学コースにするべきだったんじゃないか。2~3か月通っての予備校の職員との面談のときに、選択を誤ってしまったのではないかという不安感から泣いてしまったほどである。予備校の職員が「今から変えたらいいじゃん」とは言ってきたものの、その自信もなかった。
 高校受験の時から現在に至るまでそうだが、僕は自分のした選択を後悔しないでいることが出来ないくせにリカバリーの出来ない残念な人間だった。もはや笑うしかない。笑って欲しい。
 
 そうして、渋々と通いつづけて受験の天王山とされる8月にはいった。予備校といえども8月は夏休み期間となり、平時のカリキュラムは前半終了という形で閉じて夏期講習が中心となる。予備校の授業に意味を見出せなくなっていた僕は、ネットの情報を頼りに参考書での勉強を始めるようになり、また国公立を受けるために5教科7科目の勉強を独学で始めていた。
 8月の終わり頃にアメリカにいる親戚から遊びに来ないかと誘われて、後半のカリキュラムの一部を休んでしまい、日本史の先生に当該部分を自分で補って勉強しようと思うのですがと質問した際に「明治の近代史は重要な部分だからそこを休んだ君はもう受からないよ」と言われた。
 その時から、僕は完全に予備校に通うのをやめた。

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