自由と自分・・・それから幸せ
もし「幸せの基準はなに?」ときかれたら、「自由」と即答します。
誰かに対して自分を正当化することなく、周りの圧力に押されるのでもなく、自分自身の意思で何かを選択する「自由」。
これは、私にはとても大事なのです。
***
子供の頃、洋服を選ぶのが苦手でした。
毎朝、母から「これを着なさい」と渡されたものを着ていたので、「着る」という行為が、宿題か何かのように「言われた通りにするもの」だったんです。朝食の準備などで母が忙しいときも、自分で適当に選んだりしないで「何着ればいいの?」ときいて、言われたものを着ていました。
中学に入って制服になったときは、服装について母にきいたり、自分で悩む必要がなくなって「なんて楽なんだろう!」と感動したの覚えています。
そんな状態なので、プライベートでは、ずっと母と姉の言いなりで、自分で洋服を選ぶことはなかったです。買い物に行って、仮に自分で「あ、これいいな」と思っても、母から「それじゃなくて、こっちにしなさい」と言われるか、姉から「え〜、なにそれ。そんなの着たいの?」と言われるかのどっちかでしたから。
いつの間にか、服装でも髪型でも、母や姉の目を気にして「お母さん、これでいいって言うかな?」、「お姉ちゃんならこれにするかな?」みたいな基準でしか選べないようになっていました。
そうやって自分の「洋服の趣味」も「着たいもの」もわからないまま、成人を過ぎてしまっていたんです。
実は、今でもファッション関係では、私に対する母と姉の反応は昔とそんなに変わりません。何か言われると、一瞬ビクッとしてしまうんですけど、それでも「いいの、これで」と言い返せるようにはなりました。
***
全てにわたって、私の思考と行動は、母と姉に支配されていたと思います。
自分の基準がないだけじゃなくて、自分は本当は何がしたくて、何が欲しいのか、というのもわかりませんでした。そもそも「自分の希望」について考えることもなかったです。
洋服はその一例に過ぎません。
あくまでイメージですが、
何もない小さな部屋にずっと閉じ込められていた。
ある日、壁だと思っていたところが開いて、外に出された。
でも、足腰が弱くなっていて、立っているのがやっと。
歩こうとすると、フラフラしてしまう。
しかも、どっちへ向かっていいのかもわからない。
恐怖と戸惑いで、固まってしまう。
私は、そんな状態がとても長かったです。
そんな自分を素直に表に出して、誰かに助けを求められれば良かったのかもしれませんが、妙に小賢しかったので、誰にも気づかれないように、表向きは別な人格(独立心のあるそこそこ優等生)を演じていました。
特に、家族の前ではそうです。
自分の弱さをさらけ出す気がして、嫌だったんです。
***
「自分」が「自分」を生きられないのって、苦しいですよね。
先生をしたり、通訳をしたり、統一性のない職歴を重ねてきて、最終的に「自分らしさ」を(演じたり作ったりしないで)素直に活かす方法を、「パーソナリティ・ブランディング」として提案し、アドバイスしているのは、こんな過去があるからです。
意図してそうなったというより、なるべくしてなった、という感じです。
私が思う「自由」は「好きなことだけして、楽をする」のではなくて、「すべての意思決定が『自分』に帰属する」ことです。
そして、それが「個人の幸せ」につながるのと思うのです。
必ずしも楽しいことばかりじゃないし、キツイこともたくさんあります。
でも、それが本当に「自分」なら、逃げないで努力する価値がある、と信じています。
自分軸をなくさないようにしたいですね。
「自分を生きる」というのは、人として最大の夢ではないでしょうか。
そして「自分を生きることができる」というのは、人としてとても幸せなことではないでしょうか。
20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。