見出し画像

【エッセイ】知って欲しい『エッセイ賞の選考』

 文章を書くことは孤独だ。自分の中にある様々な思いと向き合い、拙い文章でどう情景を伝えるか、そしてそれがどのくらい読み手に伝わっているか、それらを想像しながら一人試行錯誤する。

 そして、書きあがった文章がどれだけのものなのかを知るため、公募に送りプロの方々に判断を委ねる。文章を書く者ならきっと、この経験を持つのではないだろうか。

 私もこれまで幾度となく公募に送っている。だが、今まで選考委員にはさほど興味を持たずにいた。しかし、今回送った公募ではなぜか気になり調べてみた。すると、送った公募の選考委員には直木賞作家やエッセイストの名があった。

 ここで突然だが、私が常日頃思っていることをひとつ。
 エッセイストと呼ばれる方々は有名人や小説家など、往々にしてその道で名を馳せた人が多い。きっと、そういう人たちが日々何を考え、何を思うのか、読者は興味があるのだろう。だが、エッセイを生業とする本職エッセイストとなるとグンと数が減るように思う。私の知る限りでは……

 だが、私の送った公募選考委員の中に本職エッセイストの名があった。何だか出会えたことに嬉しくなり、彼を探す。
 筆名は、こんけんどう。数多くの受賞歴を持ち、著書も数多くある。
 さらに探し進めると、
こんけんどうエッセイ Coffee Break Essay ~ essence of essay ~ 』を見つけた。読んでみると、ここでも興味深いものに出会う。

『エッセイ賞の選考』
 内容は、エッセイ賞などの文学賞の選考過程について書かれている。そういえば、公募といえば賞にばかり気をとられ、選考過程がどんなものか全く知らない。どんなものなのかと興味津々で読み進めてみる。

 まず選考は、全国各地から集まってきた全原稿を何人かで手分けして読み、評点の高い順から採っていく。第三次または第四次選考が最終選考となり、最優秀賞・優秀賞・佳作が決まる。場合によっては、特別賞・奨励賞なども出すという。

 作業は単純でいい作品そうでない作品に選別していく。この作業は、水揚げした鮭を瞬時に雄と雌に選り分ける作業。もしくは、ひよこの尻を見ながら雄雌を選別していくのと大差ないらしい。

 私にとって文章を書くことは、自分の恥部を曝(さら)け出すことでもある。『ひよこの尻をみながらの選別』という表現に深く感心しながらも、『私の尻の選別は、いかに……』と、つい笑ってしまった。

 さて、選別作業については『いろいろな人が様々な思いで書いてきたものであるため、万が一にも見落とすことは許されない。いい作品を採りこぼさないためには、複数人での選定が求められる』とし、送られてきた千本ほどの作品を十数名で分担し、百本程度を選び出すところから始まる。

 しかしながら、実際に選定に携わってみると『悪い作品を採ることはあっても、秀作をとりこぼすことはない』という。わかっているつもりだったが、いい作品というのはそういうものだと改めて思い知る。

 続けて、残った百本からさらに二十本に絞り込む。この作業もさほど難しくはなく、各自がいいと思って選別した作品を数えてみると、だいたい二十本前後。

 ここで面白いのが、たとえ応募作品が五百本であっても、千本となっても、選別したこの数に大きなぶれはないという。一定の完成度の作品として選び出されるのは二十本前後ということなのだろう。何とも不思議だ。

 そうして、選び出された作品を前に第一関門が訪れる。選定された作品が十六本だったり二十五本になった場合、限りなく二十本に近づけなければならない。なぜなら、この二十本が入選作になるからだ。

 この選別が難しいという。十六位と二十五位に大差はないが、二つを読み比べ優劣をつけていく。応募側の真剣さを思い、誰もが納得のできる優劣差を見つけ出していくからだ。

 私は、今まで賞にしか興味がなかった。嬉しく思ってはいたが、入選作は『ダメだった作品』のレッテルを貼っていた。しかし、この段階で何度も自分の作品が読まれていること、納得のできる優劣差で選ばれたことを知り、私の中で入選作が『ダメだった作品』ではなくなった。
 過去に入選した作品が、再入選した気分だ。

 さて、選考する際に選考委員それぞれ選別方法があるだろうが、こんけんどう氏は次のように行っているという。
 まず、作品を読みながら五段階評価で点数をつけていく。五段階といっても1はない。2もすでにふるいにかけられているからこれもない。5は文句なしに次のステップへ上げるが、問題は3と4。

 3と4は細分化するし、3下・3・3上といった三段階に。もちろん、最終選考の5でも細分化はするが、選定基準は選考委員の感覚と感性。そこで難しいのは、この二十本前後の作品選定そこから五本を選び出した時のそれぞれのボーダーライン周辺の作品選定だそうだ。

 実は、二十本の選定段階で上位五本が先に決まってしまうことが間々あるという。先頭集団は、すでに独走態勢に入っているということになる。まぁそれが最終選考に残る作品なのだろうが。
 ただ、六位の作品と七位の作品は納得のいく形を見つけて切り落とし、また五位と六位が拮抗している場合などは、六位までは採るが七位は落とす。

 これまでの作業だけでも頭が下がるが、ここからがまた凄い。
 ここまで絞られた作品となると純度も増してくるため、この作品を選外にしていいのか、自分の判断は間違っていないのかなどの葛藤が始まる。飛びぬけて秀逸な作品ならば選考は簡単に終わるが、優劣のつけがたい作品が残ればいろいろな葛藤を抱えることになる。その葛藤が半端ない。

 客観的に見て、自分が選んだものは本当にすぐれた作品なのか、そもそもすぐれた作品とは何か、自分に関心のあるものを無意識のうちに優先して選んでいないか。

 また、落とした作品の中にいい作品を取りこぼしていないか強迫観念に駆られ、いったん落とした作品群を慌てて堀り返したり、AとBでは明らかにBが優れているが、その優れた部分は自ら光を放つまでに磨き込まれているかなど。

 他にも、自分の好みや価値観に近いものを選んでいないか、作者の職業や社会的地位、学歴、業績、年齢、性別などが評価の邪魔をしていないか。海外からの応募作品を特別扱いしていないか、自問自答を延々と繰り返す。

 そして予備選考の段階になっても、自分が選んだものが間違っているのではないかといった負のスパイラルに陥り、採った作品の理由づけよりも、選外にした作品の合理的な言いわけ探しに躍起になったり、また一方でもっと『自信を持て』『自分を信じろ』と檄(げき)が飛んできたり。

 選定を通じ、試されているのは己の力量とまで。

 ここまでストイックに作品に向き合っていることを応募側が知っているだろうか。

 私はこれを読み感動した。そして誰かに知って欲しいと思い、すぐに知り合いに『エッセイ賞の選考』を読んで欲しいとLINEした。だが、それだけでは足りない。

 誰かにではない、文書を書く者すべてに知って欲しいのだ。
 どうかこの思いを知って欲しい……そう思いこれを書いた。

 それから、こんけんどう氏はこのブログの中で『いい作品』についても書いている。
『いい作品』というのは、原稿自体がいい雰囲気を醸し出しており、読む前から書き手の気迫が感じられる。そんな作品は、応募規定の書き方ひとつとっても、他の原稿とは一線を画しており、作者の祈りにも似た強い思いが漲(みなぎ)っているという。

 そして『なぜこんな大変な思いをしても選定に携わるのか』という私の疑問に答えるような文章もあった。
『読み手の琴線にそっと触れる、そんな作品に出くわした時、救われる思いに包まれる。いくら体裁を取り繕っても、実体験に基づかない作り物は、リアリティーを持って人生の葛藤を衝いてこない。闇を突き抜ける光を描いた作品、そんなものに出会ってみたい』と。

 そういった作品に出会うためだけに、苦悩を抱えながら作品と向き合っている。それを知り、書きたい気持ちが湧き上がる。そして、今まで以上に書くことに真摯に向き合うことを心に誓う


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?