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煮えたぎる東北の夏が、やさしいままでありますように

 ままならないことばかりの世界で、いつまで食べるものを選ぶ自由があるだろう。学食の券売機の前で逡巡している友達の後ろ姿は、ハトよりも平和の象徴にふさわしい。

それがそこにあると忘れてしまうくらいに当たり前な、この暮らしのほうが嘘だったらどうしよう。

 平成の夏休み、家の裏で育てたスイカを祖母が井戸水で冷やすのを、私は朝顔の陰に隠れて待っていた。扇風機のまえで河北新報を膝の上に広げて、運ばれてきたスイカに思いきりかぶりつき、縁側から種を飛ばしてみたりした。

同じ茶の間で七十八年前に玉音放送を聴いていた祖父が眠る墓を訪ねるごとに伸びる、私の背丈。今年私は百六十一センチ、二十歳になった。身長はまだ伸びている。

 『震災の日、ほんとうは東北に行く予定だったんだけど、直前でキャンセルになって助かったんだよね。やっぱり神さまは日頃の行いを見ているんだよ』

そうかな。

三月十一日のある夫婦の話。高齢の夫と手を繋ぎながら走って、走って、走って、気付いたらその手はどこにも繋がれていなくて、自分は津波に飲まれずに生き残った女性。彼らは罰されたのだろうか。だとしたら、どちらの罪状のほうが重かったのだろう。

 私たちよりなにかもっと大きな存在、言うなれば神とか。どこかにいるのかもしれない、かといっているとしたら、あなたは気まぐれがすぎる。

人の信仰を試すな。

神さまが私たちを愛しているなら、私たちの愛を疑うような真似をしないで。乗り越えられない試練は与えないなんて甘言で油断させないで。

与えなくていいから、奪わないでください。

 そんなふうに喉のあたりがぐつぐつと熱くなるのを感じても、隣人に煮湯を浴びせるよりは飲みこむほうを選ぶ。

まだ崩れていないだけの、いつ波にさらわれるかもしれない砂城を、わざわざ内側から揺らしてやることはないだろう。

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