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不幸な健康

あの頃の彼の心には、仕事を辞めたいという気持ちが雑草のように根を張っていて、そこに何かを実らせる余裕なんて、これっぽっちも持ち合わせていなかった。

仕事を終えて家に帰ると、毎日のように独り涙を流していた。他人のことを気にしなくていい自分だけの部屋は、あの頃の彼にとって、家賃以上の価値があった。思いっきり嗚咽をあげて泣いたあとは、少しだけすっきりしたような気持ちになった。もう少し頑張ってみよう、今が踏ん張り時だって、そんな気持ちになれたようだった。そうして、やっとのことで見出した小さな希望の芽は大抵、次の日の朝一番にあっけなく摘み取られてしまうのだけれど。それはまるで、お前の未来はここにはないと、そう言われているようだった。深い絶望感が足枷のように纏わり付いて、ますます身動きが取れなくなっていくのがわかった。この現状から抜け出すことは、囚人が脱獄するのと同じくらい困難なことのように感じられて、それが彼の絶望をさらに深めるのだった。墓穴をさらに掘り進めているような、滑稽な自分の現状を俯瞰して見たところで、嘲笑えるだけの余裕はあるはずもなかった。

突貫工事のプレハブ小屋のような脆い希望で、なんとか1日をやり過ごす居心地の悪い毎日にも、少しづつ慣れてしまうから人間というのは恐ろしい。少しずつ感情が死んでいくような、生きた心地のしない日々を積み重ねていった。それでも風邪ひとつひかない健康的な身体は、仕事に行きたくない彼にとっては不都合極まりない幸福であった。食欲は、まるで神経が通っていないかのように非情に、規則正しく彼に空腹と満腹を知らせた。現実から少しでも離れようとするかの如く、睡眠時間は延びていった。食べて、眠って、目を覚ますと、仕事に向かう時間だった。適度に食べて、よく眠った彼の身体はいたって健康で、休むための条件を満たし得なかった。身体にまで、心が置いていかれたようだった。

長く、悲しく、辛い時間を耐え忍ぶ度に、1日が24時間で済んでいてよかったと思った。疲れ果てて何も考えられなくなった頭を、身体が自動的に家へと運んでゆく。帰り道を染める夕日は、去年の今頃に見た夕暮れよりも、心なしか美しく見えた。自分が堕ちてゆくほどに、届かぬ光がより一層美しく見えてくるのだとしたら、来年の今頃に見る夕暮れはこれよりさらに美しさを増すのだろうか。そんな哀しい仮説に小さく心を躍らせながら、燃えるような西の空を眺める時間は、それなりに幸福だった。

この仕事を辞めたら、何をしようか。誰に打ち明けるわけでもなく、ひとり静かに今と違う未来を夢に描くひとときは、蜘蛛の糸ように、彼を地獄から救い出す可能性を秘めていた。もしも、このような現実逃避が悪だと言うのならば、彼はまっさかさまに地獄へと堕ちて逝っただろう。辛い現実に背中を押されてビルの屋上から飛び降りたかもしれない。そうでなければ、心機一転、新しい人生に向かってこの職場を飛び出せたなら、どれだけ良かったことだろう。だけど彼には、貯金も、他にやりたいこともない。ここを飛び出すリスクと、ここで働き続ける辛さを天秤にかけると、臆病な彼はいつまでも屁っ放り腰な選択しかできないのであった。

どんなに悩んだところで明日はやってくるし、彼が仕事を休むことはできない。生きるためには金が必要だ。とりあえず、今日はもう眠ってしまおう。明日がはじまってしまえば、あとは終わるのを待つだけ。それじゃあ、また明日。

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