回遊魚人間
私にとっての「文章を書く」行為は、「やりたいからやる」という領域を超えていると思う。
とにかく気づいたら文章を書いている。
私がツイ廃になるのは時間の問題だった。高校生にして初めてスマホという文明機器を手にした私は、ツイ廃になった!!!!!!!
スマホをゲットした私にはTwitterやブログ、などのような「文章を書く」場がある。水を得た魚のように、迷うことなく私はツイ廃になった。
それはもう「好き」の領域をはみ出している。
「書きたいから書く」のではない。
「書きたい」と思う前から書いている。
「書きたいから書く」のではなく、息を吸って吐かないと苦しくなるから文章を書いている。
私にとっての「書く」行為は、息を吸って吐くことと同意義であり、泳ぐことを止めたら死んでしまうマグロやカツオにとっての「泳ぐ」行為なんだと思う。
私は回遊魚のような生き方をしていると思う。
文章を書きたいときに衝動にしたがって書かないと、必ず禁断症状を起こす。
表題だが、私は全人類に回遊魚になることをおすすめはしない。
人によって性質の違いがあるだろうし、その人その人の性質に沿った生き方がいちばんその人にとって生きやすいと思うから、回遊魚的な生き方が向いていない人もいると思う。
あと、生きているとどうしても一定の泳ぎの速度を中途半端に緩めないといけないタイミングというのは出てきて、そういった時はもちろん少し息苦しいと感じる。
ただ、私は泳ぐことを辞められない生き物で、その性質を活かすことによってこういう楽しい生活ができてるよ、というのを書きたかっただけ。
ここでとある記事を紹介したい。
私が敬愛する渡辺裕太さんの記事である。
「好き」とは知的好奇心に基づくものとそうでない"気晴らし的な"「好き」があるのではないか、ここの部分に私は深く共感した。
おそらく多くの人にとっての「好き」は後者ではないかと推察する。だから「好き」を仕事にすることによって苦しくなるのではないかと考える。
知的好奇心からの「好き」は私の過去の経験則で言うと途中で熱意が途絶えることはない。
後者の「好き」は刹那的な刺激に興奮するような種類の「好き」と考えていて、前者の「好き」は物事の点と点が繋がり線になった時に味わうような静かな感動のよう、そういった類の静かな衝動であると私は思う。
そういった静かな衝動は私の経験上どこかで途切れたことがない。だから「追い求める」ことへの引っかかりがない。もしかしたら「何か」で心が途中で折れてしまうことがあったかもしれないが、よく覚えていない。多分その「心が折れる」ことさえ感じさせない原動力をもとに、また私は知的好奇心を満たすべく泳ぎ出してしまう。
そして際限がない、そういった好奇心は終わりがないのである。
熱意が途絶えるどころか、知識を得たらまた「分からない」ことが次から次へと湧いてきて次への行動が止まらなくなる。
なるほど、分からん となる。
⬆️この文章にはダブルミーニングがあると私は解釈していて、なるほど(適当)、分からない(分かっていない顔)なのか、もしくは なるほど…!(感動)また分からないことが増えた。。なのか。のどちらかだと私は解釈している。
ここでいうなるほど、わからんは後者である。
そのようにして、「わからん」をどんどん追求していきたくなる。「わからん」を追求するというのはとてもワクワクする行為であるから、結果的にそういった知的好奇心をもとに行動することはとても楽しいものとなる(もちろん時には例外もあるのかもしれないが)
「好き」を仕事にすることに踏み切れない人というのは、自分にとっての「好き」が知的好奇心に基づくものではないと心や頭のどこかで実は解っていて、それがなんとなく心の奥の方で引っかかっているから自分にGOサインが出せない、なかなか行動に踏み切れないのかもしれない。
と私は解釈している。
私にとっての「書く」行為に限定すると、「より良い文章を書きたい」ために人の文章を読んでいるというより、単純に知的好奇心から様々な文章を読んでいる。それがなんとなく自分のインプットに繋がっている、ただそれだけである。
ここで仮に、私が「より良い文章を書きたい」という目的のために、インプットをしている、勉強のために文章を読んでいる、としよう。
こういう行動源泉によって書かれた私の文章は、おそらく無味乾燥でとてもつまらないものになるだろう。
それは、私が詰め込み教育的に知識を自分の頭に入れると、それらの知識は自分の血肉とならないという感触があるから。
血肉となる前に、興味がないから溢れ出ていってしまう。
もちろん、適当にあり合わせの言葉を繋いで文章を創ることもできることにはできる。
そうやって付け焼き刃的に自分の「知識」としての文章を書くことはできても、自分の血肉となっていない言葉で書かれた文章は自分で後で読み返した時に本っ当に面白くない。
私は一体何が書きたかったんだろう、となる。
私が例えば本Aを面白くないと感じるのは、文章を書いている本人の言葉は「どこまで」がその人の言葉なんだろう…?と疑いをかけたくなるからで、文章に「血が通ってない」と感じるからだと思う。
私は自分が「面白くない」と感じる文章には共通点があると思っていて、そういった文章に使われている言葉たちはどこか借りてきた猫のようで、文章全体がレポートでいう瓢作のように感じられるときがある。
なんというか、「しっくり」来ないのである。
本当にこの言葉たちはこの人の言葉なのだろうか?という疑いを持ったら、私は徹底的に情報を集め出す。例えばSNSをフォローしてみる。そうすると、あぁ、この言葉は紛れもなくこの方の言葉だな、というのがきちんと腹落ちしたりする。そして、その方について色々知った後だとその方に親近感が湧いて、以前よりも好きになっていたりする。
例えばその方の動いて喋っている動画を観てみる。実際にお会いして話してみる。そして貴方の価値観について深く知りたいです、と質問を投げかけてみる。
例えばLINEを交換する機会があったら、LINEでの会話における言葉の選び方の細部に至るまで読み込んでみる。
すると、ああ、あの言葉は実はあの方の言葉ではなく、よそ行きの言葉だったなぁ、どうりでなんか「しっくり」こなかったなあ、ということに気づいたりする。
もちろんこれは私の勝手な意見なので、全く違う意見を持つ人もいると思う。あくまでも私の感想である。
私が思う「血が通っている」文章は書き手のリアルな飾らない生活が感じられる。そういった飾らない生活の中のリアルで静かな感動が手に取るように伝わってくるから、「文章が面白い」と感じる。
私はこの一連の持論について、これこそが正解だ、と自分の中の基準を誰かに説きたいのではなく、
心の中で「好きなもの」へのGOサインが出せないのなら、そこにある引っかかりの正体、実態が自分にとって何であるのか、それを思い切って知りに行くことは、結果的に自分の生活を充実させることに繋げられるのではないのか、ということについてつらつらと語っているだけである。
私も自分の好きなことについて、どのように職業に繋げていくか、ということについては過去に幾度となく考えた。
私が何かを「好き」と感じている時の傾向として、Amazonの欲しいものリストにズラッとそのジャンルの本が並ぶ。だから、時系列順に遡ると、この時はこの本買わなかったけど、そういやこの時期はこれが好きだったなあ、となる。
大体そうなった時の「好き」はここでいう一過性の「好き」なので、欲しいものリストから削除する。
だが、いつまで経ってもリストから消えないで残っている本もある。やっぱりまだ買えてないけどこの本欲しいな、お財布と相談して今度買おう、とリストに加えてから何ヶ月も経って買ったりとかはザラにある。
そしてそういったジャンルの本は自分の本棚を見てみると必ず傾向が一致していて、私は本当に「これ」好きだなあ、となるし、そういったものへの知的好奇心は途切れることがない。
こういったタイプの「好き」はすぐに自分の中で結論が出る訳ではなく、後から時間が経って「まだ」私これについて四六時中考えているなあ、という段階になって初めて心の底から、自分は「これ」についての知的好奇心が相変わらず衰えないな、と自覚する事になり、その過程を経て「自分は本当にこれが好きだ」となると私は考えている。
だから、今好きなことが見つからなくても追追見つけていくことはできると思うし、そういった「好き」なことは生活を豊かにすると思う。
ただ、この「好き」は意外と日常に溶け込んでいてかなり何気ないものであったりして、そういった日々の自分自身の静かな感動や衝動に気づくことが難しく感じる人は少なくないと私は感じている。
自分の「快」に対して敏感になることは、生活を豊かにするための「好き」を追求する上で大切な要素であると感じる。
自分にとっての「快」への解像度を上げるために少しだけ頭を使うこと、そして自分にとっての「快」とは何だろう、ととにかく行動してみることは、自分の「好き」を見つけるきっかけになると思うし、それを息をするようにしている人は凄く毎日が楽しそうに見える。
ここを履き違えている人がなんか多いなあと思うので敢えて書きたいのだが、誰かにとっての「快」が自分にとっても同じく「快」であるとは限らないし、自分にとっての「快」もまた誰かにとっての「快」とは限らない。
例えば私は幼い頃からクラシックの音楽が好きで、なぜ好きなのかは分からないがとにかく好きである。自分にとっての「快」であるからだと思う。
また私は幼少期から高校生までクラシックバレエを習った経験があり、踊ることもクラシック音楽も好きだし、衣装は素敵だし、舞台芸術としてバレエは最高だと思っているので、クラシックバレエは私にとっての「快」である。
よく周囲の人から言われるのが、バレエ習っていたなんてお金持ちなんだろう、裕福な家庭なんだろう、だからクラシックのような高尚なものを嗜むことができるんだ、みたいに敬遠されることがあるが、別にバレエを高尚なものとも思ってないし、裕福な家庭でもないし、遊びの延長線上にクラシックバレエがあったりクラシック音楽があっただけで、私はデスボイスのメタルとクラシック音楽を同じだけ好きだから、バレエが高尚とかいうその感覚はちょっと違う気がした。
けれど、世間でそのような見られ方をしているのはかなり感じるので、「あえて」デスボイスのメタルを比較対象として持ってきている。
ここまで書いておいてだが、何かを好きにならなきゃ、とか、そういうの本当に必要ないと思うし、何が高尚とかそういうのもないと思う。そこにその人にとっての「快」があるかないか、そしてそれに自分で気づくことができたか、できなかったか、それだけだと思う。
今日はたまたま霞ヶ浦に行ってきた。
ヘッダーはその画像、鳥がたくさん飛んでいて見ているだけで癒された、かわいい(私の最近の趣味は野鳥を眺めることで、鳥の種類はよく知らない)
海はやっぱりいいなあ。(すっとぼけ)