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ペンネーム

幼少期は音が2つだけの名前に憧れていた。

「かな」とか「りん」とか。

理由は単純で、音が少ない方が呼びやすいから。

でも流石に1文字だと寂しい、しかし3文字だとちょっと多い気がするので2文字に憧れていた。

親に「名前2つの音が良かった」というのをよく言って困らせていた記憶がある。笑

私の本名は3文字である。

SNSで活動する際のペンネームを2文字にしたのは、幼少期からの憧れをそのまま引きづっているところがある。

今日駅前までの自転車を漕ぎながら、自分のペンネームについて改めて書いてみようと思ったので、日付を越えてしまったが改まって書き起こしてみようと思う。

私は"凛として時雨"というバンドが好きであるのと、2文字の名前、そして単純に「凛」という字面と響きがとても好きだったので、自分で自分に名前を付けるなら、折角なら自分が好きな名前を付けようと思った。

漢字にすると見た目はかっこいいし、筆で書いた時のこの文字(私は書道部だった頃にこの「凛」という漢字が好きすぎてそのまま1文字の作品を作っている)そのものが様になるし、額縁におさめるならやっぱり漢字がいい。

だけど、SNSのプロフィールに漢字一文字で打った時に「自分的には」しっくりこなかった。

色々考えた末、カタカナ表記のアカウントとローマ字表記のアカウントを作った。

カタカナ表記の方は少しだけ細工をして名前を原型から崩した。絵文字を字の横にくっつけてしまうのは誰とも被りたくないのと、見た目にも楽しい方が良いだろう、という安直な理由である。

蝶は単純に概念として好きなのと、この絵文字が可愛いから使う。🦋笑

そしてメインはローマ字表記の方である。

数年前こそカタカナ表記のアカウントにアイドルや音楽用のオタ垢として入り浸っていたが、ここ最近というか就活で死ぬほど忙しくしていた昨年からは割とローマ字表記のアカウントに貼り付いていた。

いつからこの名前にしたのか覚えていないが、たしかこのアカウントはボディメイク用に作った気がする。それが、アクセサリーや小物、占い、香水、アニメ、などどんどんと範囲が広がって過去一の雑多垢になってしまった。

ここから本題に入る。(遅い!!!!!)

私のペンネームは元々「凛」で、見た目的に文字数を増やした方が華やかな気がしてローマ字表記に改変した。

頭文字を敢えて小文字にしたのは、AppleのiPhoneの頭文字が小文字だとちょっとカッコイイよね的な安直な理由である。(爆)

だけど、この小文字には結構思い入れのある意味を込めていて、この記事では頭文字の小文字へのこだわりについて書きたい。

私は幼少期から「几帳面」「真面目」「寡黙」「地味」といった印象を人から抱かれることが多かった。

私の内面に秘めている情熱がいかに激しくて、いかに面倒くさくて、いかに我が強いかなんて誰も興味がないだろう、と思いながら生活していた。

次第に私は、こういった自分の内面とは全く違った印象を人から持たれることに対して気が重い、と思うようになっていった。

幼少期から私は白より黒が好き、赤と青は同じだけ好きだけど、どっちかと言えばアクセサリーに選びがちなのは青で、赤はえんじ色が好き。

薄いピンクを身に纏うよりは、ライラックのような寒色系の方が好きだった。

だが、経済的に親に依存しないと生活できない小学生が服のこだわりについて親に訴えたところで、親は親の好みで服を買ってきてくれるのでそれを着るしかなかった。

もちろんそれはとても有難いことなのだが、私の性格の面倒くささはこういう所に表れる。

私と親の服の好みは真逆だったし、好きな色も真逆だった。

私が黒を選べば、親は「白を着ろ、風水的に(?)良くない、運気が下がるらしいよ」的なことを言うが、それって、親が私に黒より白を着て欲しいだけじゃないか、人の好みで服を着たくないと口では反抗していた。

私にとってファッションとは自己を構成するもので、自分の一部でもあったから、他人の好みであって自分の好みではない服を着るのが本当に我慢ならなかったのだ。

「まるで自分じゃないみたい」みたいな違和感どころじゃない。

人が選んだ服を着ることで、自分が「他人の好み」を着ていることで、「貴方はこれが好きなのね」「貴方はこういうのを選ぶ人なのね」といった印象を他人から持たれることがいちばん嫌だった。

私は小学生の頃、ベージュやブラウン、白を着ていた。勿論私の好みではない。先生からポンポンの付いた服を走る時に着るな、と言われたが、それしか持っていないのと、それ以外の服を親が絶対に頑として選びたくなかったのだから仕方ない、と思いつつ、本当に悔しかった。

ポンポンは私の趣味ではない。親の趣味である。

自分の意志で選んだ服にイチャモンをつけられようが、私は平気だ。

そうではなくて、「自分ではない誰か」によって選ばれた服を着ることで、本来の自己とはあまりにもかけ離れた自分を誰かに印象付けることは、生活する上で我慢ならないことだった(自分にとっては。)

よっぽど服に対してこだわりのない子供に生まれれば親をここまで困らせなかったし、自分もこんなに激しい感情に取り憑かれることなどなかったのに、と幾度となく思った。

成人している今、自分の選択で様々なことができる。

名前もそうで、敢えて「真面目」「几帳面」「寡黙」「地味」な印象を他人に感じとって欲しくなかったから頭文字を小文字にした。

私は英語のルールに則って、「きちんと」名前の頭文字を大文字にするような人間ですよ、と

名前の頭文字を大文字にしてしまうことは、自分で自分がそういう人間としてしまうのではないか、とそんなめちゃくちゃ他の人にとってはどうでもいい理由で頭文字を小文字にしている。

私は英語のルールに則って、わざわざ几帳面に名前の頭文字を大文字にしない人間である。

それをこのたった1文字に込めて「わざわざ」名前の頭文字を小文字にしているのである。

どうかい、私はとても面倒くさい奴だろ!

今でこそ自分の稼いだお金で、真っ黒の合皮の、意味がわからないぐらいの厚底のブーツを履けるようになった。

鈍器のようなそれが玄関に鎮座しているのを目にするだけで、親はよくぶったまげていた。

この靴を買った時、自分で選んだものを見に纏えることがとても心地よかった。清々しい気分だった。

私はこれからもこの鈍器で自分を奮い立たたせて生きていくつもりだ。

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