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「家族がバラバラになる」35年分の予言的な信念と不安のゆくえ。

整体に通いだして半年になる。

今住んでいる場所に引っ越してからたまたま仲良くなった霊能師さんに、「首と背中が昔から痛いんです」という話をしたら、良いところがあるとオススメしてくれた。あまり人には教えたくないのだと前置きがあったので、彼女の気持ちを尊重して、ここぞという機会以外人に教えるのはやめておこうと思っている。

「ここ、なかなか面白いのよ」と彼女が話していた通り、なかなか面白い。普通一般的な整体ではない。整体の先生は恐らくこう言われると怒ると思うが、気功師とかヒーラーとか霊能とか、そういう感じだ。身体を触って、動かして、ゴキゴキするとかは一切ない。一般的な整体をイメージしていくと、もしかしたら何もしてくれていないじゃないか!と思う人もいるかもしれない。でも、この先生は実はかなり深いところから施術をしている。

この先生はとても興味深い。エネルギーを上から下ろして何かするとか、彼自身から何か発してするとか、そういうことじゃない。彼はまさに“施術”をしているのだ。詳細にお客の情報を読み取り、その情報に基づいて必要な処置を施している。言葉で説明するには限界があるほど、確実に効く何かをしている。実際、整体の帰りは今までに感じたことのない軽さと疲労、そしてその晩か翌日にとてつもない好転反応が待っている。上も下も両方から突き上げる何かでトイレに立てこもったことがある。

どうも私は相当ひどい状態だったらしい。昔から下半身が重く、足の裏から太ももまで常に張っていて、どこを触られても痛いのが当たり前だった。整体に通い続けて、下半身がどんどん軽くなるのを実感し、あの重さは普通じゃなかったのかと初めて気がついた。

とても疲れやすく、一日中起きているのが実は昔からツラかった。40歳手前にしてようやく昼寝をしなくても、頭がスッキリしたまま、夜まで起きていられるようになった。私は一体今までどうやって生きてきたのかと思う。むしろこんな状態で大病を患ったことのない私は、相当健康なのだと逆に思う。

整体の先生はこう言う。「自分の身体は一番のお気に入りにしておくといいですよ。嫌でも死ぬまでずっと同じ身体なんだから、お気に入りにしておいた方がいいじゃないですか。」確かにそうだと思う。そして、お気に入りだと思えたら、どれだけいいかと思う。結局のところ、私は心から自分が好きだとは思えていない。

子供の頃の深い心の傷がいくつもあるそうだ。母との関係が主にあって、父や弟、学校の先生、そして20代になってから、そしてここ数年のいざこざ、40年弱の人生の中で起こった数々のイベントの後遺症みたいなものがいくつもある。元気であればイベントがあっても傷つくことはないらしいが、元気じゃないので傷がつく。心の刺し傷、切り傷、かさぶたが絶えないので、何かあるとすぐに血を吹き出す。そして、その血に群がるように良からぬ目に見えない奴らがやってきて私の身体の中に入り込む。そうなのだ、私の身体はおばや屋敷になっていたのだ。

私は多感過ぎる子だったのだと整体の先生は言う。だから、傷つきやすく、そこからネガティブな思考が生まれやすい。そしてそこに吸い寄せられる奴が出てくる。でも、「元気になれば寄ってこなくなるから大丈夫なんですよ」と言ってくれるので救われる。結局私の施術は、毎回除霊に次ぐ除霊で、自分でも若干嫌になる。11歳の頃から入っていた奴らもいて、私の身体に入っていた年数分の賃料を払えと言ってやりたい。「牛が一頭入っています」と言われた日には自分でもひいた。そいつが私の身体から出て行く時、恐ろしいほどの冷気と、座っていても後ろに思い切り引っ張られる感じとがあってビックリした。そして、不思議なぐらい身体が軽くなった。

「2,300kgの物が身体にずっと入っていたのだから、それは重たいはずですよ。」と先生に言われ、私は今まで本当によく頑張って生きてきたんだなと思った。先生には「ホラー小説でも書いたらどうですか?」と言われたが、ホラーを書くほどの怖さを自分では感じてはいないので、こうやってnoteに書く程度にしている。

「無抵抗な子供の頃に心が傷ついて起こっている現象は、本人の責任では無いんですよ。」そのようなことを先生に言われた。「親が子供に出来ることは何も無くて、唯一あることと言えば自信を持たせてあげることしかない。」そんな話を聞いた時は、私の親は逆だなと思った。今まで散々自分の心の中で親を責めてきたけれど、あえて他人から言われると、「私の親もそうやって育ったんだから、こうなっても仕方ないよな」と無意識に親に寄り添う自分も見つけるもんだから、人間というのは不思議で複雑な生き物だ。

半年ほど経って、ようやく大物感のある奴らはほとんど抜けた感じがする。そして、3歳の自分が出てきた。珍しく先生がこんなことを言った。「3歳のあなたに『もう不安にならなくてもいいよ』と言ってあげてください。」自分としては不思議だった。なぜなら、ここ最近の私は以前に比べて不安から遠ざかっていたと思っていたし、過去の小さな自分、つまりインナーチャイルドは自分で言うのもなんだが、結構どころか、かなり癒してきたからだ。そう思うと私はどれだけ傷つきながら生きてきたのだろうかと、自分を可哀想だと慰める気持ちよりも、傷つきすぎる自分に呆れにも似た気持ちが胸に広がる。

何が不安だったんだろうと思った。するとある光景を思い出した。実家に以前はあった庭。たぶんだけれど、まだ1歳になったかならないかの弟のために、初めて鯉のぼりをその庭に泳がせようと家族皆が集まったゴールデンウィークだったんじゃないかと思う。怒って泣きながら庭から駆け出していく母の後ろ姿。祖母か誰かがその後を追いかけるのだが、振り払うように車に乗って母はどこかへ行ってしまった、そんな光景だ。

家族が集まって何かをしようとすると、決まってこういうことが起こる。楽しみにしていても、何かが崩れる。母は感情が安定しない。父は母の些細な気持ちの変化に全く気がつかない。いつもすれ違い。母は一瞬で怒りの沸点に到達し、父は明後日の方向しか見ていない。私はいつもその真ん中で途方にくれる。そして、何とかしないといけないと思っていた。

いつか家族はバラバラになる日が来ると思っていた。その予言的な信念は3歳の時に始まったのかもしれない。だから、円の中心に一緒にいることを拒むかのように外へ外へと向かうとする家族たちの腰紐を、内へ内へと向かうように絶妙なバランスを保ちながら常に引っ張り続ける、それが私の役目のように思っていた。この紐を手放してしまったら、家族が散り散りになってしまう。そんな不安を無意識にずっと抱えていた。そしてその不安が私にとって、とてつもなく恐ろしいものだった。

喧嘩ばかり、文句ばかり、罵りばかり、そんな夫婦なら、さっさと離婚すればいいと思っていた。そんな親の姿を見ながら生活する方が子供にとって毒だと思っていた。でも、本心はどうだったのだろうか。そう思うと、結局、それは本心の裏返しで、父も母も笑顔で仲良く楽しくいて欲しかった。ただ、それだけだった。

ただ、流石に私もこの歳になると分かってきたこともある。夫婦にはいろんなカタチがあって、人にはいろんな愛の表現やコミュニケーションの取り方があることに理解は出来るようになってきた。その流れからいくと、父と母は、実のところ、仲が良いのだと思う。なんじゃ、それは!と自分でも思った。あの二人は今だになんだかんだと言い合ってるが(ほぼ母が勝手にキレてる)、還暦を越えて数年経つが離婚の気配はない。

いつか父と母は離婚するかもしれない、家族はバラバラになるかもしれない、みんな一緒に幸せでいられないかもしれない、そんな切ない不安を無意識に3歳頃から抱えてきたらしい健気な私だが、大人になった私から、怯えた3歳の小さな私に声を大にして伝えておきたい。「あなたのお父さんとお母さんは35年後も結局一緒にいるから安心しなさい。何も心配しなくていい。」と。

35年分の不安が引き起こしてきた数々の私の心の傷は、もうそろそろ終息に行き着きそうな気がする。私の心の奥には「あの二人は幸せじゃないかもしれない」という不安や苦しさが長い間ずっとあった。だから、楽しい思いとか幸せな思いをするのに罪悪感があった。二人の悲しそうな顔が思い浮かんでいたからだ。

でも3歳の私に「あの二人は結局今も一緒にいる」という事実を伝えたら、「もしかしたらあの二人、実は幸せなんじゃないか?」という思いが湧き上がってきた。よく考えてみれば、母は裁縫教室に毎週せっせと通い、私のワンピースを今は作成中。たまに電話をしてみればお友達とお出かけ中。また別の日は別のお友達とランチ。孫たちの子守りと認知症進行中の祖母の世話に忙しそうだ。父は、米を送ってくれたお礼のメールをしても返信なし。久しく話もしていないが電話が掛かってくることもない。音沙汰がないのは元気な証拠だ。

気が付けば、私の心の奥にある家族像は「みんな実は幸せだった」に切り替わっていた。私は不安になる必要も頑張る必要も、もうこれ以上ない。好き勝手に動き回る家族の腰紐はもう消えていた。絶妙な綱引きをもう一人でやり続けなくていいのだ。私、本当に今までよく頑張ったと思う。もう不幸な家族は卒業していい。

さて、次は何が出てくるのだろう。私の癒しの旅はまだまだ続く。


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