こうかい し のうた

「太陽と月、どちらが好き?」
キラキラした目が瞬く。
「好きってどういう?」
「手に入れたいって意味」
夜はすっぽりとこの部屋を飲み込んで、深い闇はもうこのベッドの近くまできている。

「僕には手に入れられないよ」
わずかに射し込む月明かりでは、あまりにも心もとない。
「いやね、ファンタジーよ」
彼女はくすくすと笑う。僕は太陽よりも月よりも、彼女の笑い声が好きだ。

「太陽はあたたかくて、月はつめたい。本当にそうかしら?」
彼女は少し眉を寄せた。何かを演じているようだった。彼女はいつまでも子どものようなことを言う。

「太陽はマカロン。月はクッキー」
彼女は続ける。彼女はマカロンが好きだ。今はくだらない話を吐き出している、この小さな口が、サクサクとマカロンを噛み砕く。そんな姿を見るのが僕は好きだった。

「僕にはわからないよ」
できるだけ優しく伝えたつもりだった。
「想像してる?何かあなたも例えてみてよ」
「僕には無理だよ。さあ早くお眠り」
彼女はゆっくりとまばたきをした。少し不服そうで、やっぱり眠そうだ。早く寝てくれ。闇はもう、僕の腕を掴んでいる。

彼女はふう、と息を吐いた。
「わかっているわ。あなたは星が好きなのね」
彼女は指を折り、ひとつ、またひとつと星座の名前を挙げる。それは吐息に埋もれそうな、わずかなささやき声だった。
彼女はけなげで、あわれで、かわいらしい人だ。
「わたし、星に詳しいでしょう?」
きゅっと口を引き結び、笑う。
「ええ、そうですね」

僕は航海士になりたかった。星をみて、風をよむ。うねる波に触れ、夜に浮かびたかった。僕は星に関する本を読み漁った。海についても。
この街で、この王宮で。この海のない街で。この、閉ざされた王宮で。

彼女は腕をあげると、手をかざした。そこには何もない。
「夜空に星座を作れるのなら、何にする?」
彼女は僕に身を寄せる。その拍子に髪が揺れ、甘い香りが漂ってきた。なにかの花の香りか、果実の香りか。僕はその名前を知らない。彼女と出会わなければ、この香りを知ることは一生なかったのだから。

先程の質問に答えなかった僕にしびれを切らし、彼女はやわらかい手を僕の手のひらに重ねた。
「うそだって、てきとうだっていいのよ。何か、答えが知りたかったの」
語尾が不安げに揺れる。本当にかわいらしい人だと思う。
そして、なによりも不幸だと思う。

彼女はこの美しい王宮の、広い部屋をあてがわれ、害になるものはすべて取り除かれた世界で、美しくきらめくものの中で育ってきた。純真な瞳には、一点の陰りもない。ただ、あまりにも知識が足りていなかった。この世界の外を知らない。知らなくてよかった。今日、今夜までは。

彼女の人生における不幸というのは他でもない。僕の存在である。幼い頃から生活を共にし、その身を守ることを任された人間が、この僕であるということが。なんて不幸なんだろう。

早く眠ってくれ。騒音も、僕の存在も気にならないように。きっとこの部屋が明るくなったとき、あたたかな光に包まれたとき、彼女は憧れの太陽に、もしくは月に行けるだろう。

僕は航海士になれるだろうか。自分の人生も、彼女の人生も、どうにもできなかったというのに。星は僕を咎めるだろうか。風は僕を拒むだろうか。

僕の手のひらに重ねられた、彼女の手から力が抜けた。僕は思わずその手をぎゅっと握った。

おやすみなさい。

最後くらい、その言葉を直接伝えたら良かった。彼女は星ではない。こんなにも近くにいるのだから。

おやすみ、僕の後悔。

いよいよ闇は僕の脳天に到達し、まるごと僕を飲み込んだ。

黒い海に沈む。彼女の白い手を握ったまま。


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