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男は金花にそれだけを命じたあと、他の男たちが必ずすることもしないで3ドルを置いて去って行ったのであった。

古今、凡そおんなという生き物は、自分の都合のいいようにものごとを捉える性質(たち)にできているらしく、金花の場合もそうであった。場合も――というより、金花の場合は敢えてそのように思い込み、自らに引き寄せて考えることで自分自身を幸せな身の上と捉える癖(へき)があった。
それはもう、クリスチャンであった母親の教えからの影響によるもの大であったろうし、自らもそう思い込むことで不幸せにならずに済む、との思い入れがなした脳の仕業ゆえでもあったろう。
まことにまだるっこしく、いささか胡乱な言い回しにはなったが、文をいたす職業にはあらぬ一介の老人が、畏れ多くも厚かましくも本サイトにておんなもすなる「書評」というものを吾もしてみんとて試みる次第なれば、これ以上に簡略な言い方を思いつかぬがゆえ、かく相なった次第。賢明なる読者諸兄におかれては、しかるべき忖度をもってご寛恕願いたい。
さて、南京の街については、この老人よりも読者諸兄のほうがより深くご存じであろうから、野暮な解説は行わないが、ひとつだけ言っておきたいことがある。それは、この物語が我らが日ノ本の国におけるできごとではなく、支那の、それも娼窟における珍事であるということである。もしこれが英国や米国での出来事であったなら、おそらくはそういうことは起こらなかったであろう。
だが、そこは東洋の、いわゆる平たい顔の人種が出入りする空間であり、ことを致すためにのみ存する閨房の一種であるからして、まじかに視る凹凸のある相貌のそれは、高々と両腕をひろげた受難の神にも見まがうほどのかんばせをしているのである。
楊梅瘡にかかり、絶望の淵に沈んでいた彼女に神の奇蹟を頼みする者に特有の邪気のなき希望の光が見えたとて、誰が難ずることができよう。就中、その青い眼を持つかんばせたるや、後光の射すように見えて、行為に及んでは金花の心には、あたかも聖テレジアの恍惚もかくあらんと思えるほどの歓喜をもたらしてくれたのである。
かつて同僚の山茶が言っていた「奇蹟」が起こったのかもしれない。いいえ、きっとそうに違いない。彼女は思った。というのも、あのかんばせを持つ男と情を交わした途端、いつものけだるく辛い身体の節々の痛みが軽快しつつあるのを感じたからであった。
同僚によれば、その病気を誰かに伝染せば二三日中によくなるということだったのだが、この場合は、あの得も言われぬまぐわいのあといくらも経たぬうちに、もう回復しようとしているのである。果たしてこれを奇蹟と呼ぶ以外にいかなる形容をもって命名し得ようか。とりわけ、幼少より身に付いた信心深さが彼女にそれを強いないはずはない。むしろ、それを信じるなと命じるほうが無謀というものであろう。
かくして彼女の病は癒えた。身体は軽快し、動きもすこぶる楽になった。顔色でさえ、赤みを増し、あの男が愛撫し口づけた乳首や乳房に残る痕もいまだほてり、疼くようでさえある。これを奇蹟と言わずしてなんと言おう。興奮を抑えきれぬ彼女は、ますます自分が神の恩寵を受けていると感じ、男に神の似姿をかさねて行った。
そうしてその夜から一年ほどが過ぎた頃、日本からの旅行家がやってきた。この男は、この窟へは二度目の来訪で、一度目は彼女の健気さに日本への土産物にしようとしていた翡翠の耳飾りをくれてやった男だった。
彼女は男に自分に起きた奇蹟を聞かせてやった。男はなにやら含みを持たせた笑みを浮かべながら彼女の言葉に耳を傾けていたが、金花にはその意味がすでに分かっていた。すっかり病もよくなったと宣言することで、彼女は謹厳実直を諷する男が安心して自分を求めるのを知っていたし、前回のときもそうだったが、今度もその好みのかたちを切望すると判っていたのである。
案の定、平たい顔をした日本の男は金花にそれのみを命じて満足したあと、他の男たちがすることもしないで3ドルを置いて去って行ったのであった。これならば、自分はあの青い眼の男と同じ運命をたどることはないと踏んだのであろう。


芥川龍之介『南京の基督』【本が好き!】noelさんの書評より転載。

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