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時間をかけて、愛されて欲しい

『かがみの孤城』の感想文を書きます、辻村深月さんのサインが欲しいから。

noteで、『かがみの孤城』の感想文を書くと、サイン入りの文庫をもらえるかもしれないのです。わたしは、学校に通えていた子どもだったし、この本を支えに学生生活を送るような、切実な救われ方をした訳ではない。作家を目指している訳でもない。だから、サインだって、もっと切実に、辻村深月という作家がこの世に存在していることをお守りにしながら、日々を生きるようなティーンエイジャーに、届いて欲しいと、心の底から思う。星を掴む想いの人に、届いて欲しい。

だけど。同じくらい、わたしだってサインが欲しい。深月さんの作品が、大好きだから、ただ眺めたいから。それは、わたしの中で、両立した気持ちです。

「サインが欲しい」「選んで欲しい」という気持ちで書くと、辻村さんの本は全部読み込んでいるんだぞと、謎のマウントを取ってしまいそう。折角なら、この文章を読んだ誰かに、手に取ってもらいたいから。辻村作品を魅力的に思ってもらえたら、ファン冥利に尽きるから。

だから。顔を知っている「ひとり」に向けて、この感想文を書くことにしました。その人には、ウソはつきたくないし、優しくありたいから、丁度いいかなって。(丁度いい、とは)

『かがみの孤城』を読んだことがあるという、わたしが慕う人。読書家のその人にとって、この本を読んだ経験は、きっと、たくさんの読書体験の中のひとつ、なのかもしれない。だけどいつか、時間を越えて、この本を読んだ記憶が、その心を温めてくれたら。その人の知らないこの場所で、こっそりと願いつつ、感想を書きます。

誰がはじまりなんだろう。

「雪科第五中学」に通うはずだった、けれど通えなかった7人の中学生が集められた、鏡の向こうのお城。鏡の中に居られるのは、たった一年弱、それも昼間だけ。現実世界を生きなければならない彼らの側にあるのが、フリースクールでした。

フウカはこころとウレシノの話を聞いて、足を運んだ。こころは、アキがいなければ、きっとそこに通うことはなかった。アキは、フウカの言葉に背中を押されたことがキッカケになった。フウカはこころに、こころはアキに、アキはフウカに。キッカケが堂々巡りで、誰がはじまりか分からないのが、とてもいいと思った。友達の間で、背中を押す気持ちや、ささやかな勇気、目に見えないプレゼントが一周してることに気付いたとき、すごく眩しいものをもらった気がした。

文庫版は、上巻411ページ、下巻365ページ。あらすじだけの羅列なら、きっとそこまでのページ数でなくても事足りる。学校へ行けない子どもたち、決して良いとは言えない家庭環境、クラス内の社会、人間の尊厳、光る鏡、鏡の中の城の世界、城でのルール、お別れの日のできごとと、種明かし。だけど、絶対ぜったい、このページ数が、厚さが、必要だったのだと、わたしは思う。

毎日ただ遊ぶ、話す、ゲームをする、一緒にお菓子を食べる。すれ違い、言い合い、パーソナルな柔らかい部分に触れること、遠慮すること。そういう日々の細かい描写は、彼らが信頼を重ねていく描写だったように思う。わたしたちを形づくるのは、何も劇的な本番だけではなくて、毎日の積み重ねなのだと、この本の厚みが語ってくれているようで。そういうところも、この本の素敵さだと、わたしは思います。

器用に効率良く生きていけるなら、それはとても幸せなことだけれど。自分と闘うことを選んで、あるいはそういう風にしか生きられない自分を受け止めて、真面目に生きていくのも、とても強いこと。

こころも、アキも、ウレシノも、マサムネも、スバルも、フウカも、リオンも。きっと、器用じゃないし、きっと真円ではない。だけどその形そのものが、その人らしくて愛らしかった。弱いところもあるけれど、それぞれささやかなプライドを持ってて、すごいなって思った。

マサムネとか、超かわいいよね。自分が好きな漫画の大事なグッズ、きっと彼にとっての宝物をあげてまで、一緒に学校に行って欲しいとみんなにお願いする。そんなことしなくたって、みんなきっと行ってくれるのに。そうまでして、みんなの力を借りたいと思ったマサムネ少年は、いじらしくも強くて、とても眩しかった。

自分は普通の子になれない失敗した子、と溢すフウカに、ウレシノが「優しいし、しっかりしてるし、全然普通じゃないよ」って返したのも、拍手喝采だった。かっこいいじゃん、ウレシノ。ヨシヨシ。

強いって、力が強いことでも、教室で声が大きいことでも、友達が多いことでも、ないんだよね、きっと。「強い」を定義できるほど、わたしは強くないし、人生経験も浅いからよく分からないけど、それでも言いたい。この本に登場する「強さ」は、ひとりじゃできないことばっかり。あるいは、ひとりきりでしかできないことばっかり。「強さ」って、人に見せつけるものじゃなくて、ひっそりとしていて、地味なものかもしれない。その地味さが、人を眩しく見せるのかもしれないね。

わたし自身は、強さや優しさからは程遠くて、冷たい人間。それをイヤという程知っているからこそ、後天的に良い人プレイをしていて。だけど、だからなんだっていうんだろう。優しいフリをし続けることって、メッキを塗り続けることって、最終的には本物と同等に厚みのある優しさになる。わたしはわたしのために、そう信じていて。この本の登場人物たちも、上手くいかない部分があるからこそ、かがみの中で誰かの気持ちを慮れたり、そうあろうと思えたのではないかな、と思ったりした。綺麗事で、わたしの願望なのかもしれないけど。

若い頃の辻村さんが書いたら。もっと切実な空気が流れていたかもしれない。クラスの真ん中で、我がもの顔で振る舞う子と、教室を他の誰かのものだと思っている端っこの子。その関係性は、1対1だった。そのヒリヒリした切れ味が、昔もいまも、大好き。だけど。

『かがみの孤城』では、学校ではそうかもしれないけど、それだけとは限らないんじゃない?とか。あなたからはそう見えるかもしれないけど、他の子からはこう見えてるよ、とか。そういう第3の眼差しがあって、それがとても温かいなと思った。「たかが学校」って、初期の辻村作品の登場人物たちが聞いたら、ビックリすると思うんだよね笑。っていうか、ビックリしたのはわたしです。

わたしは辻村深月さんのこと、何ひとつ知らないけれど。年齢や経験を重ねるごとに、そういう温かな手を、隠しアイテムのように忍ばせている辻村作品がとても好きです。もちろん、切れ味はそのままに、ね(たまに震え上がっています)。初期の本たちは、切実に、わたしにとってのバイブルだけど、近著も、わたしにとってはとても眩しい。年齢は重ねるものだなぁと、辻村作品を読むたびに年齢や経験を重ねることへの怖れが消えていくし、他人に対して、たくさんの選択肢を差し出せる自分になりたいと、背筋を正したくなる。

「勉強」というものが、マストアイテムじゃなくて、「自分を助けるかもしれないもの」くらい温度感で登場したことにも、泣きそうになった。勉強するって、自分や相手により多くのカードを提示できること(わたし調べ)。子ども同士だから響く言葉も、大人に言われるから響く言葉も、きっとあるんだよね。わたしはわたしの立場で、背中を押せる言葉を、選べる人になれているのだろうか?せっかく大人になったのだから、せっかく、先人たちが積み上げてきた言葉という素敵な文化を使えるのだから。誰かの背中を押す言葉を選びたいし、誰かと手をつなげる用意のある人でありたい。

そうそう。文化といえばね。

人間が作り上げてきたものに対する愛も、この作品の魅力のひとつ。

過去から伝わるバトンは、今回は童話や「助け合いたい」というメッセージだけど。時間の積み重ねの中で生き残ってきた名作、磨かれてきた演奏技能、五感で愉しむ料理。そういうものが持つ、時間を越えて、遍くを照らす光を感じた。

そして、未来へ託すバトンは、辻村さんの愛する漫画の「あんなこといいな、できたらいいな」の世界観と、地続き、だと感じた。(それは、わたしが勝手に星と星を繋いで星座をつくっているのでしょうか…)

わたしの好きな場面のひとつ、過去から来たスバルと、未来から来たマサムネが、肩を並べて同じゲームをしていたと判明するところ。過去から見たら目が回る程の技術が詰め込まれているにしても、ゲームの前で、それがただおもしろいから夢中になるという点で、人は平等なのだと言われた気がして。そういうエンターテイメントと呼ばれるものの圧倒的な強さが、さりげなく書かれているところも、とても好きです。

これまでの多くの人と、これからの多くの人が、頭や手を使いながら作り上げていく世界に、わたしは身を置かせてもらっている。大きなものに包まれた気がした。「強さ」ってなんだろうって、さっき書いたけど。未来や、過去、自分ではない何かや、まだ見ぬ自分自身を想像できる力も、強さのひとつかもしれないね。それがあるから、人は人として生きられる。何となくだけど、そう思う。そうあって欲しいし、辻村作品を読むことは、それを信じるエネルギーになる。日常生活では忘れてしまうから、定期的に辻村さんの世界に、会いに行く。

いつまでに、目に見える具体的な成果をあげなさい。それは社会人として大切なこと。だけど、いつか誰かに芽吹くかもしれないものを育てていくことも、同じように大切だとわたしは思いたい。芽吹かないかもしれなくても、結果が想像と違うとしても、育てていこうとすることの豊かさを、わたしは辻村深月さんの作品を通して知りました。(『凍りのくじら』とか、『東京會舘とわたし』とか、『家族シアター』の「タイムカプセルの8年」とか、『ツナグ 想い人の心得』の「歴史研究の心得」とか。)

忘れてしまうかもしれなくても、例え相手が自分を忘れてしまったとしても、覚えていたいという気持ち。そうやって、手を伸ばすことで何かが変わるかもしれないことを、優しい言葉で教えてくれる小説。けれども、それはほのめかされるだけで、たった一つの「正解」が解説される訳ではない。

リオンが記憶を留めたまま、現実世界に、日本に、雪科第五中学に戻ってきたところで小説は終わる。

読み終わって振り返ると、無限の解釈ができる気がした。そして、ようやく気付いた。わたしたち読み手には、ずっと自由が許されていたことに。振り返ってみると、あの時もあの時も、わたしに自由な解釈が任されていた。そして最後に委ねられた、これからを想像する圧倒的な量の自由。あなたの『かがみの孤城』とわたしの『かがみの孤城』は、少しだけ違うかもしれない。違ってもいい。そう気付いたとき、なんとも言えない温かさが広がった。

ところで。たくさんの「覚えていたい」意志が、この小説のハイライトだとわたしは思うのだけれど。辻村作品に出てくる、「覚えていたい」って気持ちって、とてもいいよね。「覚えている」ことを、これからの自分に課したい、と覚悟する気持ち。

『ぼくのメジャースプーン』も、『子どもたちは夜と遊ぶ』も、『スロウハイツの神様』も、『ロードムービー』も、『サクラ咲く』も、『のび太の月面探査記』も。パッと出てくるのがこのラインナップなんですが、もっとあれば教えて下さい、有識者の方。

あなたがいつか。

自分自身で巻いた優しさの種に、救われることがありますように。この作品の温かさを思い出して、包まれますように。いつか、辻村深月さんの作品と再会してくれたら嬉しいな。そう願いつつ、筆を置きます。

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