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手放せない服は"私自身"を語るもの

古来から東洋に伝わる干支暦の日運に「庚(かのえ)」が巡る日は、片付けに適した日だと感じている。

「庚」とは東洋占星術の土台となる五行思想の中の金性に配当されている干(かん)のひとつで、陰陽では陽の金性に当たる。この世のものに例えるなら刃物、鉱石などに該当し、この干の役割は、伸びすぎた枝葉を伐採する刃物のように物事を美しく整えたり、然るべきものを取捨選別することにある。ただしその際に大切なのは「正しい心を以って」整えることで、制御の効かなくなった暴走する刃物のようになってはならない。自制が求められる干でもある。

先月には「庚申(かのえのさる)」が回った日があった。「庚」も「申」も共に金性であり、金気が最も強まる日でもある。金気に満ちたこの日は、人々の心が冷徹になると昔から恐れられてきた日でもあるようだ。こんな日は優柔不断で普段なかなか進まない片付けも、バッサリと進められそうな気がする。

直近では3月7日に回る「庚午(かのえのうま)」の日も注目したい。特に「庚」の切れ味が冴えると言われる日で、まさに片付けにもってこいである。鉄が火で溶かされて刃物が生まれるように、刀は火で炙られてこそ優れた刃物となる。「午」は火性の旺地にある強力な干支で、それに鍛えられた「庚」は最も切れ味のよい刃物である。鋭利な刃物の気を味方に、バランスの良い判断を下しながら、整理整頓が進みそうだ。

昨今の優れた片付けメソッドの恩恵と、長年にわたるファッション迷子のトンネルをようやく抜けて自身のスタイルが定まってきたことから、昔と比べて断捨離に悩むことも少なくなってきた。ミニマリストではない私は、「好きな服」「デイリーに着る服」の他に「思い出の服」も少量ながらストックしている。その「思い出枠」の服のひとつにロサンゼルスのデザイナー、クリスティーナ・キムの「dosa」の藍染パンツがある。

このパンツに出会ったのは30代前半ぐらいだっただろうか。クリスティーナが心を許したお店でしか扱わないという服の売り方、染めやステッチから感じる手仕事の風合い、トレンド性のない独自のデザインと世界観。当時私が片隅に身を置いていたファッションビジネスの世界とは真逆の路線を行くクリスティーナの作品を手にした時、まるで胸中で響く音叉のように心が振動し始めた。アジアにルーツを持つアメリカ人の彼女らしく、日本の染めや豆絞りをデザインの中に用いたり、アフリカのエスニックな生地を使ったりと、多様な国の文化を交錯させながら、ポップなデザインでモノを生み出す自由な発想にも憧れた。最初に買ったのはこの藍染パンツで、続いてチュニック、スカート、ブラウスなどいくつも買い揃えていった。その数々のアイテムが「思い出の服」として今もワードローブに静かに眠っている。

初めてそれを手にした時から15年以上たった今の私に、クリスティーナの服を着る機会は残念ながら訪れていない。東京の中でも都心の、比較的コンサバな街の人たちが暮らす風景の中に、ユニークで存在感を放つdosaの服を着た自分の姿がいまいち想像できなくなってきたのだ。余程の個性がなければ、暮らす街とファッションは少なからず影響し合う。大したそれもない私は、街の、暮らす人の、思考や気を浴び続けて、スタイルが変わっていったのかもしれない。

それでも「dosa」の服を手放せないのは、なぜか。クリスティーナの作品に心震えた時の振動が、今も消えないからである。

心揺さぶられるその理由を考えながら、ふと思い当たったことがある。幼少期からずっと感じ続けている、文化のモザイクとその葛藤だ。私は家庭でも学校でも、西洋思想の教育を受けて育った。この世に顔を出した瞬間から、文化のモザイクの中で過ごしてきた実感がある。書く生業の原点である文学に興味を抱いたのも、小学生の時に父の本棚に並べられていた遠藤周作の作品群にそっと手を伸ばしたのがきっかけだった。

当時読んで心震えた遠藤周作のエッセイの中に、「合わない洋服」という作品がある。カトリック信者だった母親の影響で夙川の教会で幼児洗礼を受けた遠藤周作は、母親によって無自覚に着せられたキリスト教という「洋服」に強い違和感と苦悶を抱えていた。自分の身体に合わないちぐはぐな服を、何とか日本人の自分に合う和服に仕立て直していく試み。それこそが後に『海と毒薬』『沈黙』『深い河』ほか多くの名作を生んだ氏の作家としての原点である。

私はdosaの服の中に、氏と同じように抱える自身の葛藤の原点と救いを見たのだ。

クリスティーナによって生み出された服は、人生の中でいつの間にか埋没していた私の葛藤を探し当て、それを軽々と乗り越える自由さと美しさを洋服の中で見せつけてくれた。異なる文化同士が、デザインで美しく繋がる世界。彼女の服を目にした瞬間に心震えたのは、長い間抑え込んでいた"本当の自分"という偽りのない限りなく透明な心の海原に、清らかな救いの一滴が落とされたからである。

そしてこの透き通った心の海原こそが、(前回のnoteにも書いた)東洋占星術が説く「実気(じっき)」を育む源なのだと思う。海が透明であってこそ本来の力が濁りなく発揮でき、運勢が好転し、真の願いが波となって実現の浜辺に届き始める。私が数ある占技の研究の中から、敢えて習得に膨大な時間を要する東洋の古典技法を選んだのも、西洋思想の気を存分に浴びて育った日本人の自分が、数千年にわたり受け継がれる東洋思想の真髄を身を以って学び、dosaの服のように美しく軽やかに繋ぎ合わせて、今の時代にふさわしい"Oneness"の世界を皆んなと分かち合いたかったからでもある。

東洋占星術を通して、実気を見定める技法はある。しかしどうしても手放せない服やモノもまた、"本当の自分(実気)"の在りかを教えてくれる語り部である。だから今、流行の"ミニマリスト"になりきれなくたっていいと私は思っている。思い出の服やモノこそが、澄んだ心の海原へと漕ぎ出すボートの櫂を、そっと差し出してくれるのかもしれないのだから。

そしていつか私も、ほとばしる実気を使って遥か遠洋までボートを漕ぎだし、自分の小さな存在で、自分の手を動かして、世界を美しく繋ぎとめられる人になりたいと願っている。

たとえ、どこに暮らしていたとしても。

作家 遠藤周作が追い求めた世界の集大成とも言える作品『深い河』(講談社刊)と氏の講演録をまとめた『人生の踏絵』(新潮社刊)。実家で読んでいたエッセイ「合わない洋服」が収録された本の題名は失念してしまいましたが、『人生の踏絵』の講演録の中に同じ趣旨の話が収録されています。




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