正義 ーデリダの幽霊とゾンビー


これまで、国家の意味について、優性思想、人間の選別、「人にあらざるもの」の創出と追放隔離、強制収容所、総力戦、絶滅装置、怪物、戦争機械などの概念を使って考えてきたが、ここで、幽霊とゾンビを追加しておきたい。(以下は2017年4月にサイト「ノード連合」に掲載したもので、タイトルのみ変更)

ジャック・デリダは、言語、法とならんで、国家も、原初的に「他者」を外部に暴力的に排除することで成り立つものであり、その排除はたえず反復されているととらえる。同時に、排除は決して完全に成功することはないという。なぜなら「他者」を排除すべき外部は、そもそも内部を前提にするものである以上、内部が転写されたものに過ぎず、内部と外部に絶対的な境界線を引くことは不可能だからだと。かくて「他者」は理不尽な追放に対する復讐を果たすべく、たえず密かに内部へと回帰し、あたかもそれ自体で自足しているかのように見える内部(外部は存在しないと宣言する内部とはトートロジーである)に侵入し、汚染することになる。

密かに回帰するこの「他者」こそ、デリダのいう幽霊なのだ。デリダは、幽霊との遭遇は「不可能なもの」を体験することだという。というのは、国家にあって、原初的に、そしてたえず反復的に排除される「他者」は、国家にとって存在しないもの、接触が不可能なものとされ、隠蔽されるからであり、「他者」が幽霊として回帰することはその隠蔽が暴かれることに他ならず、それはそのまま国家の危機を招き寄せるからである。したがって、国家の危機とは、不可能が可能になる可能性ということになる。

そして、もし国家にとって「他者」を排除しつくすことが不可能だとすれば、「他者」とはむしろ国家が存在するための条件だということになる。ということは、「他者」が内部に回帰すること、すなわち国家の危機は、つねに国家に内在していることになる。

デリダは幽霊をこう語る。

私は長いあいだ、幽霊について、伝承と諸世代について、幽霊の諸世代について、いいかえれば、私たちに対しても、私たちのなかでも外でも、現前したり現前的=現在的に生きてないある種の他者たちについて語る準備をしているが、それは正義の名においてである。…すでに死んでしまったか、あるいはまだ生まれていないかであれ、もはや、あるいはまだ、現にそこに、現前的=現在的に生きて存在するのではない、そうした他者たちの尊重を原理として認めないようなどんな倫理も、革命的であれ非革命的であれどんな政治も、可能であるとも、考えられるとも、正しいと思われない以上、幽霊について、いやそれどころか、幽霊に対して、幽霊とともに語らなければならないのだ。あらゆる生ける現在を越えて、生ける現在を脱臼させる(The time is out of joint)ものにおいて、まだ生まれていなかったり、すでに死んでしまった者たちー戦争、政治的その他の暴力、民族主義的、人種主義的、植民地主義的、性差別主義的その他の虐殺、資本主義的帝国主義やあらゆる形式の全体主義的の抑圧の犠牲者たちや、そうではない犠牲者たちの幽霊の前で、なんらかの責任を負うという原理なしには、どんな正義も…ありえないし、考えられないように思われる
(『マルクスの亡霊たち』1993)

デリダの幽霊は、私たちが革命主体として形象化してきたゾンビとほぼ重なっている(『ゾンビ革命的』)。ゾンビもまた「人にあらざるもの」として国家から外部へ排除され、人間としての痕跡を消去されながらも、「生ける死者」として国家の内部に回帰する存在だからだ。そして「生ける死者」という形容矛盾が端的に示すように、まさに「不可能なもの」である。

「ゾンビは生ける死者であり、恐るべきものとして社会から排除されるが、人びとにとって外部の敵ではない。なぜなら人はゾンビに噛まれ、感染するとゾンビに転化(変身)してしまうのであり、だからゾンビは外部的でありながら、同時に内部的な存在だからだ。ゾンビによって生と死が反転する。「Living Dead」と呼ばれるのは、ゾンビが生と死の境界を自由に往還する存在であることを指し示している」(『ゾンビ革命的』2015)

私たちはこれまで正義をあいまいなまま、それでも不可避な言葉として選択してきたが、デリダによって幽霊と正義が連結していることを学んだ。ゾンビもまた正義を希求する存在に他ならない。国家権力の前に、身体以外になんの武器もなく立ち尽くす、アガンベンの「剥き出しの生」もまた幽霊であり、ゾンビであり、正義を希求する存在である

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