絶滅装置としての国家

近代国家は、優生思想によって人間を選別し、国家にとって無価値な人間を法外に追放し、最終的には強制収容所内で殺戮する衝動をその成立とともに内包していることを前ポスト『新反動主義と優生思想』で指摘した。

またその選別は、エリートと大衆に収斂し、大衆はエリートのイデオロギーへの同一化を強いられ、このこともエリートを大衆の殺戮へと誘惑する動因となることも指摘した。

人間の同一化がなぜ死を呼び寄せるのかを再度繰り返せば、「他者の同一化」に向う欲望は、死への欲望(タナトス)であり、ある地点でかならず暴力と死を招き寄せるからである。人間の間の差異は自然的なものであり、それが人間の属性として避けられないものであるにもかかわらず、それを消し去ろうとすること自体、不可能を可能にせんとする無謀な試みにならざるをえず、最終的には暴力を、そして死もってしか実現できないからである。

すると近代国家を継承し、選別と同一化への衝動を持つ現代国家は、最終的にはその構成員すべて殺戮し、滅亡への道をひらく「絶滅装置」ではないのかという問いに私たちはぶつかることになる。

この問いイエスと答えるとすれば、前ポストでも触れたように、国家構成員全員を動員する総動員体制下の「総力戦」をその例証として持ち出すことになるだろう。

敗戦直前の1945年1月に、「本土決戦戦略」が軍部により策定されたが、その概要は次のようなものであった。(以下、引用はWiki『決号作戦』)

大本営は検討の結果、連合軍の本土侵攻を遅延させ、その間本土の作戦準備態勢を確立するために『帝國陸海軍作戦計画大網』を1945年1月20日に定め、本土決戦への準備が進められていくことになる。この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域に連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血をはかりつつ、軍備を整え、日本本土で大決戦を行うという日本海軍の漸減迎撃戦略が採用された。

しかしこの決戦を闘うための陸海軍の兵力は「根こそぎ動員」(当時使用された用語)を行ってもなお圧倒的に不足しており、それを埋めるため同年6月には従軍を命じる兵役法とは別に、「国家総武装」の名の下で、義勇兵として国民を総動員する義勇兵役法が制定された。その結果、本土決戦に対応するための兵力は以下のように計画されていた。

陸軍軍人および軍属 約315万人
海軍軍人および軍属 約150万人
国民義勇戦闘隊 約2800万人

すでに連合軍によって制空権を奪われ、従って敗北が必至の戦況の中で、なおこのような作戦を立てることは狂気でしかない。上表の兵力総数3200万人という規模を考えれば、この作戦が文字通り、日本帝国が全国民を道連れに絶滅に向かおうとしたものと言うべきである。

だがこの狂気の作戦は、8月のポツダム宣言受諾による敗戦によって実施されることはなかった。しかし沖縄においては、3月末から2ヶ月以上にわたりアメリカを主力とする連合軍の侵攻に対し、沖縄と本土防衛の盾とすべく日本軍による「総力戦」が地上戦として展開され(沖縄の14歳から19歳までの師範学校や中学校、実業学校の男子学生が軍人として動員された)、兵士9万人、沖縄県民の犠牲者は12万人に及んだとされている(当時疎開者を除く沖縄の人口は推定42万人)。日本国家による総力戦は、沖縄において部分的に実行に移されていたのである。

ヒットラーはベルリン陥落後、自殺する直前に、新ローマ帝国の首都たる新ベルリン(ゲルマニア)を設計していた建築家シュペーアから「私たちが敗北した後はどうなるでしょうか」と問われ、「後などない。消滅するだけだ」と答えたと伝えられているが、このヒットラーの答えも、彼の観念の中では、国家の消滅はその構成員全員の消滅と同義であったことを示唆するものである。

実際、シュペーアの設計したゲルマニアのミニチュア模型には、整然とした建造物だけが並び、人の気配、痕跡がまったく感じられないものである。それも道理で、シュペーアとヒトラーは、数千年後に廃墟になっていたとしてもなおその偉大さが残るような建築をめざすべきだというシュペーアの「廃墟価値の哲学」で同盟していたのだ。廃墟、すなわち絶滅があらかじめ埋め込まれた都市がゲルマニアだったのである。

だとすれば、およそ国家がある限り、私たちは常にこの絶滅装置が発動するリスクに晒されていることになる。国家指導者は、危機の局面で全面戦争の誘惑に晒されるである。

この発動に抵抗し、時にその動きを中断させることはできるだろう。だが、近代国家が本質において絶滅装置であるとすれば、最終的には国家を廃棄しないかぎり私たちは発動のリスクから逃れることはできない。

だが他方で私たちは、共産主義の失敗以降、まだいかにして国家を廃棄できるのか、その見取り図を持てていない。それは、絶滅装置の発動に抵抗するたたかいの中からしか見つけ出すことができないだろう。

さしあたって言えるのは、絶滅に対する抵抗は、別の、より憲法と法にそった国家(現在流通している用語を使えば立憲主義国家)を対置することによっては成し遂げられないだろうということである。

というのは、現代国家こそナチスとソ連の全体主義壊滅の上に建てられたものであるにもかかわらず、いま世界は再びファシズムの誘惑に駆られつつあるからである。1945年、いったんは地下深く埋め込まれたはずの絶滅装置がふたたび再稼働しつつあるのを私たちは2020年の今、世界の至るところで目撃している。

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