プレイスポットデイトライン、または新宿二丁目盛衰記(その2)
(つづく)と記してから、数か月が経過しているような気もしますが、何事もなかったようにつづきます。
版元である新潮社の説明文をまるまる引用すると、伏見憲明『新宿二丁目』はこんな本です。
東西約三百m、南北約三百五十mの区画の中に、三百をはるかに越えるゲイバーと、女装系、レズビアン系バーがひしめきあう新宿二丁目。「二丁目」として海外でも有名な、世界最大の多様性を抱えるこの街は、一体なぜ、どのようにして、いつ頃からそうなったのか。自身、そこでゲイバーを経営する著者が、関係者への丹念な取材を積み重ね、知られざる歴史を浮かび上がらせる。決定的街場論。
で、その前フリとして、伏見さんは、謎の昭和遺産「プレイスポット デイトライン」と、そのとなりにあった古本屋「昭友社書店」について触れているのでした。あいにく、ふたつともなくなってしまい、跡地には東京五輪目前の再開発ブームにのったのか、ピカピカの新築マンションが。昭友社書店が営業していたあたりだけ、雑草が生い茂る空き地になっているのは、土地取得に失敗したのかもしれません。とはいえ、いずれこの一角にも別の建物が建つのでしょう。
プレイスポット デイトラインについて、伏見さんは「かつてヌードスタジオだったと思われる店構え」と指摘しています。いわく「客が外から覗くために設けられたと思われる出窓と、出入り口の扉が遺跡のようにそこにあった」と。ああ、なるほど。
古い雑誌や戦後史をあつかった本などをめくっていると、ふしぎな単語に出くわすことが多々ありまして、わたくしにとってヌードスタジオなるものも、よくわからないもののひとつでありました。字面や文脈から推測するに、性風俗の店ではあるのだろうけど、さて、そこではいったいなにがおこなわれているのか。
あるとき古い日本映画(なんだったか忘れましたが、田宮次郎が主演だったような……)をみていたら謎が解けました。ヌード+スタジオ。つまり、文字どおり、下着姿になった女性を撮影できる店だったのです。ふたたび『新宿二丁目』の説明を引きます。
ヌードスタジオとは、一九五八年の売春防止法の後に流行った風俗店で、そこで肌を露出した女性を写真撮影したり、場合によっては撮影の名目でモデルの女性をホテルなどに連れ出し、買春ができるシステムになっていたという。新宿二丁目には赤線が廃止になって以降、一九六〇年代から七〇年代にかけて数十軒もが軒を連ね、私が最初にこの街に足を踏み入れた八〇年代の初頭ですら、その最後の残り火を目にすることができた。その〝遺物〟が二十一世紀に入って二十年近くも経っていたにもかかわらず、奇跡のように姿をとどめていたのである。それはまさに、かつてこの街が異性愛男性の風俗街だった頃の〝つわものどもが夢の跡〟。
注意していただきたいのは「異性愛男性の風俗街だった頃」があったという事実。新宿二丁目はむかしから〝ゲイタウン〟だったわけではないのです。そうした歴史的推移をふまえたうえで、伏見さんは考古学者よろしく〝ゲイバー〟の起源から筆を起こし、「どうして二丁目にゲイバー街が生まれたのか」という問題意識に則り、「東西約三百m、南北約三百五十mの区画」の来歴を掘り起こしていきます。詳細については、どうぞ都市のオデュッセイアともいうべき『新宿二丁目』をお読みください。
以前、別項で触れましたが、〝写真という媒体〟と〝新宿二丁目という空間〟の親和性の高さにはふしぎなものを感じます。過去を留めおくという意味で、写真が幽霊的なメディアだとすると、朽ち果てたヌードスタジオとは幽霊の二重化にほかなりません。数十年前、助平根性にあふれた男性たちが撮ったであろう何百枚何千枚もの写真群はいまどこにあるのでしょうか。行方知れずの写真たちもまた、幽霊としての出自に忠実なのか、おおかた姿を消してしまったようです。そのあたりの事情を、エロ本が山積みになっていた昭友社書店の店主に訊いておけばよかった、とも思います。
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