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母の中の少女と愛について

幼い頃から母が今の生活を、本当に望んでいたのか疑問に思ってきた。自分のやりたいことなんて考えたことがないような素振りでいる。

毎日子供たちを起こして、父の投げやりな言葉にも過剰に反応せずにやり過ごし、365日どんな時でも食事を作り、洗濯をし、仕事をしていた。

私には”自分”より”他人”のことばかり優先する母は、自分を大切にしていないように見えた。
ずっと本物の表情を見られていない気がしていた。

わたしは大学に進学し、母と離れて暮らすようになった。ある日、大学の近くの雑貨屋に入った。その雑貨屋は、マトリョーシカの専門店だった。

マトリョーシカが所狭しを並ぶ店内をみて、
私は母の中の少女を初めてみた気がした。

母には姉が居たが、年がずいぶんと離れていたため話についていけず、寂しい思いをしていた。そんな幼少期にマトリョーシカを従兄弟のお兄さんから貰ったのがうれしくて、とても大切にしていた思い出があるようだ。

店員さんと楽しそうに話す母がマトリョーシカを手に取った時、母の目から涙がこぼれた。
意図もせずに、”こぼれた”という状況が確かにそこにあった。

はじめて母の、本物の涙を見た気がした。

その日は一日中、ぼーっとしていた。
眠る前にふと母の涙を思い出した。

変な夢をみた。

子供時代の母が
「マトリョーシカと自分だけの世話をして生きていきたかったの」と言いながら家を出て、マトリョーシカを開けると、小さな子どもがたくさん出てきて、一言、「家に帰るのよ」と呟きながら大人に還った。



もう一つ、母の本物の表情を見たことがある。
遠く離れた母の親友がうちに寄った時だ。
親友と笑いあっているときの表情が無邪気で
こんな風に笑う母を見るのは、はじめてだと思った。

時を経て、母に失礼ながらも質問してみたことがある。

私)これまで幸せだった?やりたいこととか他にあったんじゃない?
母)子どもたちが元気で居てくれる今が一番幸せ。

それを聞けて、ようやく今まで抱えていた荷が降りた気がした。

これまでの私は、良くも悪くも相手の心の移ろいに敏感に反応し、
”本物”へのこだわりが強く、
常に”本物”の感情を探していた。

だから私は、母の本物の表情に出会った時に、
蓋を閉めてないと、飲み込まれてしまいそうな自分の感情に、無意識にも意識的にも母が選択していることが不幸に思えた。

でも、本当にそうなのか?と最近は思う。

つい先日まで放送されていた「大豆田とわ子と三人の元夫」の最終回に
以下のような展開があって、食い入るように観た。(※ネタバレ含みます)

<以下内容>
主人公のとわ子が亡くなった母の遺品から、
離婚する前の母が書いたラブレターを発見する。
そこには「夫と娘の面倒を見るだけの人生なんて」という
母の嘆きの言葉が書かれている。

そこで母の元恋人(付き合っていたかは不明だが想い合っていた人物)に
会いに行き、主人公のとわ子は、どうして母が元恋人を選ばず父と結婚して
自分を産んだのかと質問する。

元恋人はとわ子に「あなた、不安だったんだよね。大丈夫だよ、お母さんはあなたのことを愛してた」と語る…という展開だ。

もし、私が母の本物の表情や本物の気持ちを見つけたと思っていても、
それは自分の知らなかった側面を見ただけで、
本物でも、偽物でもなく、母の、ひとつの側面を見たに過ぎない。

だから、私は母が言ってくれた
「子どもたちが元気で居てくれる今が一番幸せ。」という言葉を聞けたことが嬉しかったし、そう信じている。

私の考える愛というのは、
ただまっすぐに相手を見て、いろんな側面を見せ合って、
それでも尚、信じ続けるものだと仮定する。

皆さんにとっての愛とは、なんでしょうか。
考える日々は続きます。

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